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 激動の時代を生きた私

 序文
  大正、昭和、平成と日本が大きく変化した時代を生き抜いた、平凡な一人の 女性を自伝風に書きました。

  目次 
  1. 七人姉妹
  2. 乙女時代
  3. 恋愛・結婚・太平洋戦争
  4. 疎開・生活苦の時代
  5. 成長する子供たち
  6. 安住の地
松井田城落城記
豊臣秀吉の北国軍と北条の勇将大道寺軍との奮戦記を描きました。
目次
1.開戦前夜
2.戦いの時
3.攻防
4.落城

興味のある方は印刷して読んで下さい。

七人姉妹



碓氷峠の向こう側に浅間山を望む妙義山麓に位置する松井田町、ここから山一つ越えた九十九村高梨に江戸時代から続く農業を営む藤巻家がある。 
 山の斜面がなだらかになる山裾に位置し、家の前には後閑、原市、高崎へと続く道路が通じ、道の反対側に民家が数件立ち並びその向こうには九十九川が流れている。藤巻家には女ばかり七人姉妹がいる。 
 6番目に生まれた「たき」は生まれてまもなく捨てられた。長女「きわ」、次女「きよ の」、三女「きぬ」、四女「きせ」、五女「あさの」、六女「たき」七女「かね」で「たき」と長女との歳の差は20歳、親子ほども離れていた。
 姉妹皆、きりょう良しで、上の姉たちは評判の娘であった。
長女の姉「きわ」20歳は女の子を出産して2、3ヶ月でその子は亡くなってしまった。まもなく「きわ」の母も「たき」を出産した。
 姉「きわ」は母に、「親子で子供を産んでいては人様に笑われますよと」言った。そこ で母は「たき」をぼろ布に包んで外の薪の上に夜、遅く置いた。朝、泣き声がするので次 女の姉「きよの」17歳が可愛そうだと母の所に抱いて行った。
 母は「たき」を抱いて
、ごめんね、ごめんね、もう決して離さないからと言ってずっと泣 いていた。
 6月初旬であり夜の寒気も和らいでおり命に別状はなかった。風邪も引いていなかった 丁度同じ頃、姉「きわ」は子供を亡くしたばかりでお乳がいっぱい出た。逆に母はお乳が 出なかった。そこで姉「きわ」は妹「たき」にお乳をいっぱい飲ませたので福福しく、可 愛く、丈夫に育った。その後は姉妹のなかですくすくと育った。

 
これらのことは、「たき」が17,8歳の時、次女の姉「きよの」姉さんに聞かされて知ったことだった。「たき」は以来、長女の「きわ」姉さんにいつも感謝の念を抱いている。

 ここからは私の記憶の中にあることなので「たき」を私に変える。私がもの心ついた、4歳頃、次女の「きよの」姉さんがお嫁に行った。馬が来て「箪笥」を馬に付け、馬に乗って、きれいな「きよの」姉さんが出て行くのを縁側で見ていた。幼な心にきれいだと思った。


 時は過ぎ大正10年4月に、1年生に入学した。
父に、着物地とカバンを買ってもらい、母に着物を仕立ててもらった。入学前、もう幾つ寝ると、学校と毎日数えて待ちわびた。

 4月8日、九十九小学校に入学、その日、3女の「きぬ」姉さんが母の代わりに入学式に連れて行ってくれた。とてもきれいなお姉さんで嬉しかったことを思い出す。ここまでは私は姉妹や父母に囲まれ日々幸せに暮らしていた。

 転機はここから始まった。父の兄の子供、豊吉は高梨から2Km程はなれた九十九川の下流の橋のたもとで食料品、及び雑貨を商っていた。また民宿も営んでいた。日々の生業に不自由しない収入はあった。子供のいない豊吉は藤巻家に養子縁組をお願いした。私とは親子ほど年が離れていたが従兄妹であった。

 私が1年生の夏休み、8月、知らないおじさんが高梨子の家に馬に乗って来た子供が無いので一人子供をもらいたいと言って来たのだった。
私のすぐ上の姉たちは「おれ」は、いやだと、奥の部屋にかくれてしまった。

 私の妹「かね」4歳が、「おれ」が行くんだと言って馬に乗り、そのおじさんと一緒に後閑の家に行った。2日ほどして母は「かね」は小さすぎて可愛そうだからと2歳年上の私と取り替えたいと言うことになり、四女の「きせの」姉さんに連れられて、後閑の知らないおじさん、豊吉の家に行った。

 「きせの」姉さんは妹の「かね」を連れて高梨子の家に帰って行った。
私は淋しい気持ちだった。毎日、西の空を眺め高梨子の家に戻りたいと思っていた。私は母や、姉たちと離れて暮らす淋しさに耐え切れず、夕方、田んぼと畑ばかりが続く3Kmの道を一人泣きながら帰り、姉たちに2,3日かくまわれ、また連れもどされた。

 特に「きぬ姉さん」は夕方暗くなってから家の入り口で泣きながら帰って来た妹を優しく匿ってくれた。
この様な状態を何度も繰り返すうち私はいつしか豊吉の子供になって行った。
豊吉の妻、「「とき」は優しい母であったが、掃除、洗濯、料理の手伝いと女性として一人立ちできる厳しい躾も果した。

 私が2年生になったら朝は台所の掃除、3年生に成ったら台所と庭掃き、4年生に成ったら雑巾がけが加わり、5年生に成ったらさらに、お店ばん、これらの仕事を学校に行く前にしなければならなかった。

 5,6年生になると学校から帰ると、すぐ店の品物を近所の家に配達する仕事が待っており豊さんの家のお使い小僧と近所の人に言われた。
こんな風に昼間は仕事がいっぱいで、勉強は夜だけしか出来無かった。でも私は、一所懸命勉強もやった。

 4年生の時、初めて学校で優等生のご褒美をもらった時は本当に嬉しかった。今でも私は忘れない。5年生からは優等生総代になり、親戚から誉められるのが本当に嬉しかった。6年生からは、高等科2年までずっと級長をした。

 しかし度々、養父、豊吉にしかられ高梨子に泣きながら帰り、姉たちに優しくされた後、父が後閑の家に送ってくれた。

 大手を振って帰れるのはお正月、お盆、10月のお祭りの3回位いだった。
2泊したら帰って来なさいと言われていた、この時が私にとって姉たちと楽しく過せる時間だった。いつもこのまま居続けたいと思った。

 大正天皇が亡くなられて昭和天皇が即位されたのが6年生の時だった。その時、メリ ンスの着物と紫のメリンスの袴を作ってもらい、私にとって、こんな嬉しいことはなか った。

 この時からこんな嬉しいこともあるので我慢して後閑の家に居ようと思った。
さて私が小さい頃の強烈な印象に残る出来事、関東大震災に戻る。私が小学校2年生の時、大正十二年九月一日のことだった。学校から帰って、お昼ごはんを食べている時に大地震があり家が大きく揺れ、外に飛び出した。立っていられない位の今まで遭遇したことの無い地震だった。

 夜になったら東の空は真っ赤になって、3日くらい空が赤くなっていた。後閑の養父の妹弟が東京に行っていたので養母がおにぎりをいっぱい作って、東京に行ってくると言って出て行ったが、3日程後、分からないと帰って来た。
鉄道も動かず、120Kmの道を歩いて行った。当時は自転車も資産家の家しか持っていなかった。

 しばらく経ってから養父の妹の「秋ちゃん」、弟の七朗おじさんが、着のみ着のままで帰ってきた。何日か一緒にいたが、また何処かへ行って、居なくなった下増田に妹弟の父が1人暮らしをしていたのでそこに行ったのだろうと思った。

 しばらくして、「秋ちゃん」叔母さんは製糸工場の教婦になり、七朗叔父さんは船乗りになった。「秋ちゃん」叔母さんは4,5年田舎にいたが、東京に出て行った。その叔母さんが私を可愛がり東京から帰ると田舎では誰も着ていない洋服やくつ、和服用の草履などお土産にもらった。

 このような時は私はつらいことも忘れた。「秋ちゃん」叔母さんは後閑の家に何時までも私に居てもらいたくてとりわけ可愛がったのだと後年分かった。
さて話しは小学校、5−6年生に戻ります。昼間のつらい仕事を済ませ、夜勉強をした。5年生の時、安中の高等女学校に行きたいと言ったら、出してやると言われたので喜んで勉強した。

 6年生の正月頃、先生が家に来て、今の成績で高崎高等女学校も大丈夫だから受験させて下さいと頼みに来た。

 高梨子の父も学費の半分は自分が持つから出してやってくれと養父に頼みにきた。当時の高崎高等女学校は2〜3年間で1人位いしか田舎の学校からは進学出来ない名門であり、難関だった。

 しかし養父は約束を反故にし受けさせてくれなかった。
今度は小学校の高等科を卒業したら、東京の渡辺裁縫女学校に出してやると言われ楽しみにしていたがそれも駄目になった。

 養父、豊吉は女の子に高等教育を受けさせることにより世間一般を広く見る様になり養女として自分の家を継いでくれないと思い進学への約束は全て反故にした。高等科を卒業してから、小学校に裁縫の先生が居たので、その先生について一心に習った。先生がお嫁に行く時、先生の着物をまかせられるまでに成った。
私の大好きな仕事であり近所からも依頼されるように成った。 

 店はお酒、たばこ、お菓子、雑貨と、良く売れ民宿も官庁関係の人や電力会社の人がタクシーで来て2−3日泊まって行った。当時は女中さんもいた。
当時の貧しい農村では泊まり客は金回りの良い裕福な人達で一般には干物くらいしかなかった生活の中で、新鮮な生魚、おさしみ、蟹等も所望し食膳に並べた。

 従って日常生活は美味しいものが食べられ、生活に不自由した記憶は無かった。私はいつしかお使い小僧から、たばこ屋のかんばん娘と言われる様に成長していた。しかし、高等女学校の夢を捨てきれず、当時NHKで通信教育があったので高等女学校の課程を一人かくれて勉強をしていた。

 しかしこの後、半年後の大きく運命をかえる事件により勉強の夢は挫折した。

  次回「乙女時代」に続く


 

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