疎開・生活苦の時代
 
 主人が無事に帰って子供達と一緒に生活できることは何にも変えがたい幸せであった。家の裏側は30メートル程の小高い山であり山を越せば「きぬ」姉さんの住んでいる宮の上に出る。

 家のすぐ前に増田川から分流した小川が流れており洗濯したり、野菜を洗ったり、顔を洗ったりで、近所の人達との交流の場でもあり私達はよそ者であったが皆分け隔てなく接してくれたので近所の人達とすぐに打ち解けていった。

 主人は家の前50メートルほどの近くを流れる増田川で魚を釣ったり子供と水遊びをしたりして戦争の疲れを癒す気ままな生活をして過ごした。

 主人は2〜3ヶ月仕事をするあてもなく戦争からの開放感もあって気ままに過ごしていたが小さい子供3人抱え働かなければならず、当面農業でもやりたいと思っていた。

 当時は村の働き手は戦争に駆り出され多くの戦死者を出していたので畑は荒れていた。群馬は戦前から養蚕が盛んであり放置された桑畑が沢山あった。そこで「きぬ」姉さんの主人が村役場に勤めて、大地主とも懇意にしていたので、お世話して欲しいと頼んだところ快く引き受けてくれた。

 土塩上大久保の小高い丘の上の桑畑を借りられるよう話をつけてもらった。全体で一町歩程の土地が桑畑であったが桑を引き抜いた部分だけ借りられることになった。以後主人と2人で桑の木を掘り起こし農作物が出来る様に朝から晩まで働いた。
 樹齢30年ほどの桑の根は地中深く張り、当時はシャベルで掘り起こしていたので多くの労力と時間を費やした。

 掘り起こしている場所から東側に安中磯辺から高崎へと続く関東平野が一望でき、南側に雄大な妙義山が聳え、西側の山岳地帯の上に浅間山が噴煙をたなびかせている。北側にははるか遠くに榛名山があり風光明媚な場所である。

 今まで経験したことのない重労働であったが希望に満ち溢れていたので少しも辛いと思わなかった。3ヶ月ほどで畑として使用できる土地2反歩、家の敷地として80坪程を確保した。
 丁度その頃南方に陸軍として赴任していた地主の次男が復員してきたので開墾は中止となり、地ならしした所だけを借りられることになった。程なく農地解放が施行され借りた土地は自分のものとなった。

 家は80坪の敷地に建坪10坪程の小さな家を建てた。当初はもっと大きな家を建てる予定だったが当時の超インフレで出来上がった家は粗末なものだった。
日本鋼管当時蓄えたお金と軍隊からの支給金で当時のお金で3年くらい遊んでいても暮らせる予定だったが長く続いた超インフレで瞬く間に無くなって行く、

 家も親戚の工務店に依頼したが当初約束した広さと内装は加速するインフレを理由に破棄され建坪は30%程度の10坪程になってしまった。また引き渡された家は天井もなく畳も入らなかった。

 主人は超インフレの時代とは言え騙されたと慨嘆した。しかし現実にこの家で生活するしかなく、むしろを敷いて畳の代わりとした。

 家が出来上がって引き渡されたのは12月に入ってからだった。冬になると妙義山や浅間山からの風が強く、家の中に隙間風が吹き込み寒さに震えた。

 暖をとるのは蒔を燃やして出来る炭をこたつの中の灰に入れ寒くなると灰の中から炭を掘り出したが寒い夜は炭がすぐに無くなってしまいふとんの中で温まるしかなかった。また障子の隙間から冷たい風が入ってくるので目張りをして冬中過ごした。

 開墾した土地で初めての農作物は野菜が出来る程度だった。昭和21年、食べるものも無い生活だった。主人は家族の為少しばかり蓄えた着物や調度品をもって町に出てやみ米と交換し、また山で取れる食料となるものを探した。生活は瞬く間に貧乏のどん底に転がりこんで行った。

この様な生活の中で主人も日本鋼管に戻ろうか、疎開したこの地に留まろうか主人は悩んだ。 当時、都会へ出ても「やみ」で食料を手にいれなければ生活出来ない状態であり、住む家も無い都会で生活出来る目途は立たず、何よりも家族分かれて暮らすことは子供のために避けなければならないと、貧乏でも子供が育てられる細野村に定住することにした。

 長男6歳、長女4歳、次女2歳で子供を育てるのが大変な時代だった。戦争の生々しい恐怖も子供たちの記憶に残っていた。次女は飛行機の音がすると決まってこたつ布団の中に隠れてしまう。

 家は「うえの山」と近所の人が呼んでいた山の中腹にある。風向明媚な高い場所であったが村落から離れた場所で電気もなく石油ランプの生活だった。水は下の家の井戸でもらい水、バケツで担いで飲料水や風呂水にした。雨水を貯めてふろに使った。

 水汲みは下の井戸まで150メートル位いあり、標高差30メートルはある急坂でところどころ雨でえぐられた道路で足が滑らないように注意しながらの運搬は重労働であった。特に風呂をわかす時はバケツ2つを天秤棒で担ぎ10回位い水汲みに往復した。子供達も時には手伝ってくれた。主人も山仕事で疲れた体で時々は手伝ってくれた。

 しかし水汲みは私の仕事であり、昼間の畑仕事で疲れた体にはきつかった。
特に夏は山岳地帯特有の雷と共に豪雨が降り、水汲みの道路をえぐってしまい、水汲みはなお更大変なとなる。しかし毎日の生活のために生きてゆくために続けなければならなかった。

 「きぬ」姉さんの御主人が林業を手広くやっていた。村に一台しかないトラックを持ち蒔や材木を東京方面でさばいていた。
生活費が底をついて来る中、主人は家族を養うため、義兄に依頼してやった事のない山仕事を始めた。5〜6人組んで一山の木を切り倒し、丸太にし、薪や、ボヤにして麓のトラックの来る所まで出し、それが終わると次の山に移った。

 最初は筋肉痛を起こしていた主人も次第に山仕事に慣れて行った。
義兄の経営だったので5〜6人の責任者として先に立って仕事をした。肉体労働できつい仕事だった。当初時計も無く私は朝、暗い内に東に明るくひかる明けの明星を目当てに起きた。朝4時か4時半頃には起きて朝食の準備とお弁当作りを始めた。

 主人は初めの一月くらいは歩きで仕事場に行ったが1時間以上もかかったので自転車が欲しいともらしていた。しかし購入するお金は無かった。たまたま主人の実家、原市に用事で行った時、旧友に会った。

 若いとき一緒に柔道をやり、遊び仲間だった友人の「真ちゃん」が原市で自転車店を経営していた。近況を語り合って居る時、山仕事の話をした。そこで中古の自転車を格安で譲ってもらい仕事場への通勤の足とした。

 親友とは有りがたいと思う。貧乏のどん底で小さなあばら家であったがそれから時々オートバイに乗って訪ね、楽しそうに談笑して行った。親友と会った夜は風呂に入りながら歌を歌うこともしばしばだった。

 当時ご飯や煮物は全部、薪やボヤ(木の枝を燃料用に加工したもの)で行う。朝6時になれば主人はお弁当を持って家を出る。
冬はまだあたりは暗かった。仕事場についた頃太陽が出て明るくなった。出来高払いの賃仕事で夕方は暗くなるまで働いた。山仕事をして1年くらい後に中古の柱時計買うことが出来。 時間が分かるので朝起きるのが楽になる。

 畑では麦、陸稲、ジャガイモ、ダイコン、里芋、さつまいも等が収穫できた。お米は配給で購入した。主食は麦と、さつまいもの中にお米が5割位い入ったものを食べる。夕食は最初は「すいとん」食糧事情が良くなってからは「おきりこみ」を作る。

「おきりこみ」は毎日粉をこね、伸ばしてうどんを作り、味噌仕立てで野菜や山菜を入れる。肉など無かったので時には「みがきにしん」等の蛋白源を入れることもあったが夕食は毎日同じ「おきりこみ」であった。

 終戦後の混乱した世情とはいえ畑で採れるものの他、近くの山で山菜を取り川魚や「たにし」等何でも食べる。また食べなければ成長期の子供を養っていけない。

 ある時、主人がカレーライスを作ってくれた。軍隊の初年兵時代炊事当番をしていたので俺にも作れるといって子供達のために腕を振るってくれた。肉など全く手に入らなかったので近くの田んぼからタニシをいっぱい採ってきて肉の代わりとした。

この時のタニシの美味しかったこと、後年子供達もあの時のタニシをもう一度食べたいともらしていた。

 長男が1年生に入学してお友達の家に遊びに行った。「今日ね、収ちゃんの家でお昼をご馳走になったの、白いお米のご飯でとても美味しかったよ」この言葉は、可愛そうと言う思いと共に私の耳に生涯残ることとなる。

 私の子供時代、白いご飯を何時も食べていた。それに比べ子供達は白いご飯などここへ越して来てから食べさせたことがない。また食べさせられない、貧乏がこんなにも切なく悲しいものかと心の底から思った。

 わずか二反歩の畑から収穫する陸稲や野菜、それに一日働いて得る300円程度の収入で生活は貧乏のどん底であった。 
子供たち3人が学校に行く様になったら生活は益々苦しくなった。長男が中学1年生位いになっても苦しい生活は続いた。家計の足しに長男と私は日曜日には歩いて1時間30分位かかる新開の山に薪やぼやの背負い出しに行った。

 重い蒔きが肩にくい込む様であり重労働であったが少しでも現金収入を得るため歯を食い縛って1日蒔を担いだ。

 1日働いて長男と2人で80円位いにしかならなかった。帰りにはぼやを背負い疲れた体でまた1時間半の道を歩いて帰った。

 持ち帰った「ぼや」は燃料として使う。夏休みには往復3時間の道を歩き、長男は薪やぼやを「そり」に乗せて山の上から土場(道路から100メートル程山側に上がった蓄積しておく場所)まで運び、私はその薪やぼやをトラックの発着場まて「しょいこ」で背負い、出した。

 主人より2時間先に帰るのだが帰ってから水汲みや食事の支度で、くたくたになってしまった。しかし現金収入を得るために必死で頑張った。山に行かない時は炭俵編みをし1日に30個、多い日は33個編んだ。それでも得られる収入は50円程度である。

昭和24年次男、清治が誕生した。子供は4人になり生活はいつも火の車だったので借金をしないで生活するのが精一杯だった。この様に一日一日を生きてゆくのがやっとのどん底生活が何時果てるとも知れず続いた。

 そんなある日、丁度、お茶積みの時季で近所のお茶積みを手伝っていた時だった。東京の「秋ちゃん」と「七朗さん」が細野村の私の家に訪ねて来た。
後閑の養父の兄妹だ。私には従兄妹になる。「7朗さん」は4番目の姉さんの主人となる。下増田の叔父さんも一緒だった。

 私が後閑の養女時代、東京のデパートに勤務し子供ながらきれいな人と思っていた「秋ちゃん」には1000円、七朗さんには500円、この時頂いた。働いても、働いてもお金の不足していた時だったので、嬉しくて涙が止まらなかった。主人が1日働いて300円程度であり大金だった。

 子供たちの学費に使い、また当時人から借りてしか読めなかった少年少女用の雑誌を買ってあげることが出来本当に嬉しく思った。一緒に来た下増田の叔父さんがこんな山の中に私を置いて置くのはもったいないと、しきりに言っていた。

 粗末な衣類に身を包んでいた私でしたが近所の人や行商の人達から品の良い奥さんと言われていたのでちょっぴり嬉しく思った。 

 この頃、養父はすでに亡くなって追いかけられる心配も無くなっていた。しかし 時々夢の中で追いかけられて、うなされた。

「秋ちゃん」や七郎さんに会って養父の怖かったことを思い出すと共に優しくしてくれ た少女時代のことが数多く思い出され涙が止まらなかった。
どん底の生活の中で心満たされた貴重な再会であった。夜眠る時有り難う、有り難うと何日も繰り返し心の中で感謝した。

 昭和26年主人と一緒にわき目も振らず働き、畑を一反歩新たに購入することが出来た。山仕事では1日働いて500円程度稼げるようになっていたが当時のお金で4万円で大金だった。生活に追われる毎日の中で少しずつ貯めた貴重なお金だった。この畑のお陰で食べ盛りの子供達になんとか食べさせることが出来た。

 昭和の文明社会にあって私の家には電気もなく水道も来ていなかった。
昭和29年、電気を引きたくても下の家から距離があり東京電力では個人で電柱を購入しない限り電気を引いてくれなかった。

 そこで電柱を自分で購入し、電気を下の家から引くことにした。距離があったので電柱は2本必要だった。

 長男は中学3年生になっており受験勉強中であったが石油ランプの灯りで夜勉強していたのでこれでより頑張ってくれると思った。また石油ランプのホヤ磨きからも開放された。

 子供達も明るい電気に大喜びだった。この時、川崎市時代の5級スーパーのラジオを修理し聞くことが出来、子供たちはラジオにかじりついた。

 この頃「きぬ」姉さんのご主人が細野村の村長をしていたが、何も無いあばら家だったが時々ひょっこりと顔をみせ、沢庵や漬け菜で話をして行った。
 事業家でもあり、村長職も多忙な中、妻の妹である私のことが何となく心配で様子見に立ち寄ってくれたものと思う。

 「きぬ」姉さんは、本当に優しいお姉さんで子供たちを大変可愛がってくれた。終戦後のお菓子や飴が買えない時代、雑貨屋をやっていたので、姉さんの所に、お使いの度にお菓子をいっぱい頂い帰り、家で子供たちは嬉しそうに分けて食べた。

 当時私の家の畑でイチゴが沢山採れるようになった。朝一番で摘み取って義兄のところに長男がとどけた。そのたびに「きぬ」姉さんからお菓子や飴を沢山もらい嬉しそうに帰ってきた。私は食べなかったが子供達の幸せそうな顔を見ているだけで満足だった。

お正月、お盆、お祭りには普段質素な生活だったがこの時ばかりはお赤飯を炊いたり手作りの煮しめや煮魚で祝った。しかし子供達へのお小使いはすずめの涙ほどしかあげられなかった。

 そんな時、家であげられない分、「きぬ」姉さんから、お小使いをいっぱい頂き子供たちは大喜びだった。お使いに行った時、また偶然学校の近くのお店で会った時、子供達を呼び止めてお小使いをくれた。

私が小学校へ入学する時、「きぬ姉さん」に親代わりで連れて行ってもらったが今も私に対する思いは当時と少しも変わっていないと思った。

子供達が素直にそだったのも「きぬ」姉さんの分け隔てのない大きな愛によるものと私は感謝した。

 長女「美也子」、次女「さかえ」は住み込みで子守りに雇ってもらった。
「きぬ」姉さんの孫は女の子ばかり4人いた。皆きりょう良しであった。長女民江、次女晶江、その下に近所でも評判の可愛い双子の郁子、睦子がいた。
 長女民江と私の次女栄とは4歳ほどしか離れていなかった。口べらしのためで有ったが家族の一員として育ててもらい、特に次女は数年滞在し、美味しいものは食べられるし、洋服など時々作ってもらい大喜びだった。

 また同級生がうらやましがるような洋服を作ってもらい学校に着て行ったところ男の子にいたずらされて洋服を汚されることもあった。
また私のあばら家に次女「さかえ」が4歳位になった双子の郁子、睦子を連れてたまに泊まってゆくこともあった。

 「きぬ」姉さんは私の娘達を子守りと言う身分ながら実質は自分の孫と同じ様に扱ってくれた。特に次女「さかえ」は、このまま手伝いとして居てもらい、「きぬ」姉さんの家から嫁にやりたいと言われた程だった。

 私の二番目に大きい「きせの」姉さんの末っ子、文ちゃんにもすぐ近所に居たのでひんぱんに行き来し遊び仲間にも入れてもらい2人の子供に妹の様にしてくれていた。

 宮の上の義兄の本家は蔵が4つもある大きな富農で庭も広く近所の子供達の遊び場になり私の長女も次女も文子ねえちゃんと言って慕っていた。

 「きせの」姉さんも小さい時養女に出され苦労した少女時代の私を思い出し、子供たちに優しく接してくらたので文ちゃんも自分の妹のように遊び仲間に入れてくれたものと思う。

 少ない収入であったが毎日働けることが生活出来る全てであった。義兄には主人の仕事を切らさないようにしてもらっていた。優しいお姉さんがそばにいたから細野村に住むことが出来たと私は思う、「お姉さんにはどんなに感謝しても、し尽くせない。
 私は村長の奥さんの妹だったので貧乏のどん底の生活であったが村の人達からも親切にしてもらい当時を思い出すと、今でも私と接した多くの人達に心から感謝している。

 主人が帰って、2〜3ヶ月して「きぬ」姉さんの主人が村役場に勤めていたので、当時男手が不足し、放置されていた桑畑を2反歩程借り、主人と2人で桑の木を掘り起こし農作物が出来る様に朝から晩まで働いた。

 家の敷地も80坪位いの桑を引き抜いた土地に2間、3間に4坪程の台所が有る小さな家を建てた。当初はもっと大きな家を建てる予定だったが当時の超インフレで出来上がった家は粗末なものだった。

 日本鋼管と軍隊からの、当時のお金で3年くらい遊んでいても暮らせる予定でしたが当時の長く続いた超インフレで瞬く間にお金は無くなって行った。

 開墾した土地では初めての農作物は野菜が出来る程度だった。食べるものも無い生活だった。主人も日本鋼管に戻ろうか、疎開したこの地に留まろうか悩んだ。
当時、都会へ出ても「やみ」で食料を手にいれなければ生活出来ない状態であり、貧乏でも子供が育てられる細野村に定住することにした。

 昭和21年、長男6歳、長女4歳、次女2歳で子供を育てるのに大変な時代だった。戦争の生々しい恐怖も子供たちの記憶に残っていた。次女は飛行機の音がすると決まってこたつ布団の中に隠れてしまった。

 家は「上の山」と近所の人が呼んでいた山の中腹に建てた。高い場所で電気もなく石油ランプの生活だった。当初は畳もなく板の間にむしろを敷いていた。水は下の家の井戸でもらい水、バケツで担いで飲料水や風呂水にした。雨水を貯めてふろに使った。

 水汲みは下の井戸まで150M位いあり、標高差30Mはある急坂でかなり疲れた。特に風呂をわかす時はバケツ二つを天秤棒で担ぎ10回位い水汲みに往復した。子供達も時には手伝ってくれた。主人も山仕事で疲れた体で時々は手伝ってくれた。しかし水汲みは私の仕事であり、昼間の畑仕事で疲れた体にはきつかった。

 当時「きぬ」姉さんの御主人が林業を手広くやっていた。生活費が底をついて来る中、主人はやった事のない山仕事を始めた。5〜6人組んで一山の木を切り倒し、丸太にし、薪や、ボヤにして麓のトラックの来る所まで出し、それが終わると次の山に移った。

 義兄の経営だったので5〜6人の責任者として先に立って仕事をした。肉体労働できつい仕事だった。当初時計は無かった。朝、暗い内に東に明るくひかる明けの明星を目当てに起きた。朝4時か4時半頃だった。

 ご飯や煮物は全部薪やボヤで行った。朝6時になれば主人はお弁当を持って家を出た。冬はまだ暗い内だった。3年位いして中古の柱時計を買うことが出来た。
 時間が分かるので朝、起きるのが楽になった。しかし相変わらず主人は暗い内に仕事に出かた。

 畑では麦、陸稲、ジャガイモ、ダイコン、里芋、さつまいも等が出来る様になった。お米は配給で購入する生活だった。麦と、さつまいものなかにお米が3割くらいのものが主食だった。夜は最初は「すいとん」食糧事情が良くなってからは「おきりこみ」だった。

 長男が1年生に入学してお友達の家に遊びに行った。「今日ね、収ちゃんの家でお昼をご馳走になったの、白いお米のご飯でとても美味しかったよ」この言葉は、可愛そうと言う思いと共に私の耳に生涯残ることとなる。

 子供たちが学校に行く様になったら生活は益々苦しくなった。長男が中学1年生位いだったと思う。長男と日曜日には歩いて1時間30分位かかる新開の山に薪やぼやの背負い出しに行った。

 1日働いて長男と2人で80円位いにしかならなかった。帰りにはぼやを背負い疲れた体でまた1時間半の道を歩いて帰った。

 持ち帰った「ぼや」は燃料として使った。夏休みには今度は往復3時間の道を歩き、長男は薪やぼやを「そり」に乗せて山の上から土場まで運び私はその薪やぼやをトラックの発着場まて「しょいこ」で背負い、出した。

 主人より2時間先に帰るのですが帰ってから水汲みや食事の支度で、くたくたになってしまった。山に行かない時は炭俵編みをした。1日に30個、多い日は33個編んだ。

 3人が学校に行っおり、昭和24年次男、清治が誕生しており、子供は4人になり生活はいつも火の車だったのでこの様に働いて、借金をしないで生活するのが精一杯だった。

 そんなある日、東京の「秋ちゃん」と「七朗さん」が私を訪ねて細野村に来た。
後閑の養父の兄妹だ。私には従兄妹になる。「7朗さん」は4番目の姉さんの主人だ。下増田の叔父さんも一緒だった。
 
 「秋ちゃん」には1000円、七朗さんには500円、この時頂いた。働いても、働いてもお金の不足していた時だったので、嬉しくて涙が止まらなかった。主人が1日働いて300円程度であり、で大金だった。

 子供たちの学費に使った。一緒に来た下増田の叔父さんが、こんな山の中に置いて置くのはもったいないと、しきりに言っていた。

 その頃はお茶積みの時季で近所のお茶積みを手伝っていた時だった。養父はすでに亡くなって追いかけられる心配も無くなっていた。しかしこの頃も私は時々夢の中で追いかけられて、うなされた。

 昭和26年主人と一緒にわき目も振らず働き、畑を1反歩新たに購入することが出来た。当時のお金で4万円で大金だった。子供も食べ盛りとなりこの畑のお陰でひもじい思いをさせずに済んだ。

 昭和28年、電柱を自分で購入し電気を下の家から引くことができた。距離があったので電柱は2本必要だった。
 子供達も明るい電気に大喜びだった。この時、川崎市時代の5級スーパーのラジオも聞くことが出来、子供たちもラジオにかじりついた。

 この頃「きぬ」姉さんのご主人が細野村の村長をしいたが、何も無いあばら家でしたが時々ひょこりと顔をみせ、タクアンや漬け菜で話をして行った。
 事業家でもあり、村長職も多忙な中、自分の妻の妹の私のことが何となく心配で様子見に立ち寄ってくれたものと思う。

 三女の 「きぬ」姉さんは、本当に優しいお姉さんでした。子供たちが大変お世話になった。終戦後のお菓子や飴が買えない時代、雑貨屋をやっていたので、姉さんの所に、お使いの度にお菓子をいっぱい頂いて子供たちで分けて食べていた。

 お正月やお盆、お祭りには家であげられない分、お小使いをいっぱい頂き子供たちは大喜びでした。私には生活することが精一杯で子供達に小使いはあげられなかった。
子供達が素直にそだったのも「きぬ」姉さんの分け隔てのない大きな愛によるものと私は感謝した。

 上の女の子「美也子」、下の女の子「栄」は住み込みで子守りに雇ってもらった口べらしのためで有ったが、特に下の子は数年滞在し、美味しいものは食べられるし、洋服など時々作っても らい大喜びだった。

 「きぬ」姉さんは妹私の娘達を子守りと言う身分ながら実質は自分の孫と同じ様に扱ってくれた。特に次女「さかえ」は、このまま手伝いとして居てもらい、うちからお嫁にやりたいと言われた程だった。

 二女の「きせの」姉さんの末っ子、文ちゃんにもすぐ近所に居たのでひんぱんに行き来し2人の子供に妹の様にしてくれていた。

 主人の仕事も切らさないようにしてもらっていた。優しいお姉さんがそばにいたから細野村に住むことが出来た。私は思う、「お姉さんにはどんなに感謝しても、し尽くせません。本当に感謝しております」と。

 近所の人達にも大変親切にして頂き、この地に生活できたこと、心から感謝している。
  
 
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