乙女時代
 
 高等科を卒業した翌年、後閑小学校で秋の大運動会があった。村の青年男女、生徒が多数参加し、見物客も大勢集まり、盛大に行われた。

 午後、お友達4,5人で見物していた時、知らない青年が私たちの所に来て、「原市から4人で走りに来たのでこれから走るから応援してくれますか」と声をかけられた。

 一生懸命応援してあげた。短距離競争で見事1番になった。競技が終わってから
私のところに「有り難う」と言いに来て、帰って行った。

 その後、お店晩をしている私の家に時々訪ねて来て、安中駅から碓氷峠まで走った事や、柔道の大会で優勝したこと等スポーツの話を良くしてくれた。
賞品など時々持って来てくれた。女姉妹の中で育った私には凛々しく好感のもてる青年だった。16歳になった私は豊吉さんの家のお使い小僧から、いつしか、たばこ屋の看板娘と言われる様になっていた。お店も繁盛した。

 毎日の生活も楽しく、また未来に夢を持って過ごしていた。夜は勉強もしていたしかし養父に学校を卒業したのだから「勉強などするな」と、通信教育を学んでいることが分かってしまい怒られた。とにかく私を家に縛りつけておこうとしたのだった。

 つらい時が何度か重なった。つらさを癒すため高梨子の実家に時々帰った。色々優しくしてくれた次女の「きよの」姉さん、3女の「きぬ」姉さんはお嫁に行って家には、この時,既に居なかった。

 大好きな姉さん達に会う為に上後閑から人家の全く途絶えた山越えで宮の上まで
4Kmのみちを歩いて行った。会っている時は楽しく辛さを忘れられた。

 しかし、約束は平気で反故にする、その上些細なことで養父豊吉に怒られ、私は将来に対する希望が持てなくなり、生きる気力を失っていた。

 私は養父、豊吉の顔も見たく無くなっていた。何処か人知れず死んでしまいたいと思た。そして、ある日、絶望は止め処なく大きくなり、高梨子から天神山を越え松井田に抜け、中山道を、山へ山へと登って行った。

 横川に入ると、妙義山の急峻な山並みが道の両側に迫り、木が鬱蒼と繁り、6月半ばだったが冷気が感じられた。

 時々木漏れ日が差し、鳥のさえずりが時々聞こえてきた。
曲がりくねった上り坂を16歳の私は力の続くかぎり、ただひたすら歩んだ。
横川を過ぎ碓氷峠にさしかかると鬱蒼とした森林になり、当時、熊や狐、狸、鹿等が出没した。 朝、高梨子を出たが碓氷の山の中で既に夕方になっていた。

 後閑の家には帰りたくない、このまま山の中で誰かに見つかることもなく死んでしまいたいと山道を登って来た。疲れで切り株に腰掛けて小鳥のさえずりを聞きながらぼんやりとしいた。

 素敵な原市の青年ともこれで会えなくなるとぼんやりと思っていた。私には優しい青年だった。時々、後閑まで遊びにきてお話をしてくれた。会っている時は楽しかった。

 しかし私は結ばれないだろうと思った。養子で一人娘の私はお婿さんを迎え、後閑の家で親の薦める相手と一生過すことを思うとなにもかもいやになっていた。その頃碓氷峠
から軽井沢に抜ける道が拡張されていた。

 私が座って居る切り株の場所へ、道路工事の親方のおじさんが見えて、「こんな時間に何処へ行くのだ」と聞かれた。

 その親方のおじさんは、ここからは夜になってしまい何処へも行けない、悪いことをする人は誰もいないから今晩はここへ泊まって行きなさいと諭された。

 碓氷峠は若い女の子の自殺の名所にもなっていた。奥深い森林の中で道に迷ったら二
度と出て来られない。工事のおじさんは高い山の上から一人で山道を登って来る私を見つけ降りて来たのだった。

 一目見てこの娘は自殺志願者だと見抜いた。
そして、生きていれば必ず希望が持てる様になる、命を粗末にせず生きなさいと諭された。その夜そのおじさんのそばで夜の明けるのを待った。朝になったらおじさんが、おにぎりを持って来てくれた。家は何処かと聞かれた。高梨子ですと答えた。碓氷の山の中から高梨子まで20Kmはある。

 そのおじさんが高梨子まで歩きで付き添って連れて来てくれた。当時は工事現場に車など無く、ほとんどの仕事は人手で行なっていた。本当に優しく、親切なおじさんだった。
埼玉県の人だった。そして、父に事情を話し、工事現場へ帰って行った。
 その時、高梨子の父に、もう後閑には行かなくていい、と言われ碓氷製糸に住み込みで働くことにした。  

 製糸工場では工場長に可愛がられ、工場長のそばで事務の仕事をした。暇の時は数学
や、そろばん、帳簿のつけ方など教えてくれた。 先生のように色々教えてくれた工場長を今でも時々懐かしく思いだす。

 私が後閑の家を失踪してから養父豊吉は馬にのり猟銃を携えて探しまわっていた。
碓氷製糸に1年ほどいたが、養父豊吉がそこにも探しに来たので碓氷製糸をやめ、父に「隣の家の姉妹が
埼玉県の製糸工場に勤めているからそこへ行っていなさい」と言われ
養父に見つからない所なら何処でも良いと思い行った。ここでは製糸の女工さんをやった。

 素敵な青年に後閑で初めて会ってから2年が経過していた。後閑の養父の家の前に九十九川が流れ、橋が架かっていた。橋のたもとで知り合ってからお店番の合間に青年「次郎」とは時々お話しした。

 養父「豊吉」に二人の交際は知れることとなり、絶対に許さないことを義母を通して青年にきつく言い渡していた。しかし青年は決してあきらめなかった。青年は20歳になり兵役に付いていた。埼玉の製糸工場で働いている時、青年が3年の兵役で青森に赴任していたが、休暇で家に帰る途中、訪ねて来てくれた。

 しかし青年が面会で申し出た時、私とは会えず他の人が出てきた。私は18歳になっていたが、未だ幼い感じだったので工場の担当者が分からなかったものと思う。この時は私と青年は会えなかった。
 
 埼玉の製糸工場に2年ほど、居たがここも養父が探しに来る様になったので、東京の
4女「きせの」姉さんの家に世話になり、お菓子屋さんにしばらく勤めた。
この間、養父は高梨子の家、上増田の「きよの」、「きぬ」姉さんの所へ例のごとく、馬に乗り鉄砲を携えて探しに行った。

 養父は心当たりを探したが見つからず、「きせの」姉さんのいる東京にも出てきて捜した。ここでも見つからず、警察に捜索依頼したが、警察の人に対しても余りにも乱暴な態度と言葉使いの為、警察もあきれて相手にしなかった。この様に家出してから私の逃避行が続いた。

 運動会で親しくなった青年は逃避行の間、時々訪ねてきて励ましてくれました。そして次第により緊密になり何時しか恋する様になっていた。
そして一緒になりたいと思う様になっていた。青年は東京にも、兵役で休暇の時訪ねてきてくれた。

 東京に勤めて、2年位い経った時、高梨子の父が東京の大学病院で胃癌の手術をし、一旦は良く成ったが、秋の農作業で無理がたたり、寝たり、起きたりの状態になった。
ほどなく父が病気だから帰ってこいと言われ、高梨子に帰り、父の看病をした。父も私のことを、とりわけ心配していた。

 恋しい青年のことも父に打ち明けた。青年は農家の次男坊で、青年団でスポーツの部門で活躍、その後兵役で海軍にいること等を話した。しかし父は既にこの青年のことは知っていた。原市の5人兄弟の次男でかなり暴れん坊であることも。

 しかし「たき」には優しくしてくれた。私はこの青年と結婚したいと思い、病気の父に相談した。父はどんなことがあっても親、姉妹に心配をかけない覚悟があれば行きなさいと許してくれた。私はこの時21歳になっていた。

 父は昭和12年2月12日に亡くなってしまった。62歳だった。私は、今思えば父に心配を掛けどうしの親不孝ものだったと思う。

 父が亡くなってすぐに上増田の「きよの」姉さん、「きぬ」姉さんの所に遊びに行った。姉さん達には好きな人の所へお嫁にゆくことは許してもらえたが、「きぬ」姉さんの旦那さんにはもっと安定した人を紹介するからと反対された。当時はお見合い結婚がほとんどだった。

 ある時、ふろに入っていた。当時のふろは薪を燃料として風呂場は家の外にあった。
義兄は薪をくべながら、あきらめろと言う。「はい」と言わなければ義兄がその場から退散しない。熱さに耐えかねてあきらめる、と言ったこともあった。
姉さん達の居る、上増田に1週間くらい滞在した。その間、養父が馬に乗り、鉄砲を携えて探しに来た。

 その時は姉さん達の家の本家が蔵のいくつもある大きな家だったので、蔵の中に隠してもらった。真っ暗な土蔵の中でひたすら養父に見つかり連れ戻されない様に一心に祈った。

 高等科を卒業した翌年、後閑小学校で秋の大運動会があった。村の青年男女、生徒が多数参加し、見物客も大勢集まり、盛大に行われた。


 午後、お友達4,5人で見物していた時、知らない青年が[たき]たちの所に来て、原市から4人で走りに来たのでこれから走るから応援してくれますかと声をかけられた。
一生懸命応援してあげた。短距離競争で見事1番になった。競技が終わってから私のところに「有り難う」と言いに来て、帰って行った。

 その後、安中駅から碓氷峠まで走った事や、柔道の大会で優勝したこと等スポーツの話を良くしてくれた。
賞品など時々持ってきてくれた。女姉妹の中で育った私には凛々しく好感のもてる青年だった。16歳になった私は豊吉さんの家のお使い小僧から、いつしか、たばこ屋の看板娘と言われる様になっていた。お店も繁盛した。

 しかし養父に学校を卒業したのだから勉強などするなと、通信教育を学んでいることが分かってしまい怒られた。とにかく私を家に縛りつけておこうとしたのだった。
つらい時が何度か重なった。つらさを癒すため高梨子の実家に時々帰った。色々優しくしてくれた次女の「きよの」姉さん、3女の「きぬ」姉さんはお嫁に行って家には、この時,既に居なかった。

 約束は平気で反故にする、その上些細なことで養父豊吉に怒られ、私は将来に対する希望が持てなくなり、生きる気力を失っていた。
私は養父、豊吉の顔も見たく無くなっていた。何処か人知れず死んでしまいたいと思た

 高梨子から天神山を越え松井田に抜け、中山道を、山へ山へと登って行った。
横川に入ると、妙義山の急峻な山並みが道の両側に迫り、木が鬱蒼と繁り、6月半ばでしたが冷気が感じられた。

 時々木漏れ日が差し、鳥のさえずりが時々聞こえてきた。曲がりくねった上り坂を16歳の私は力の続くかぎり、ただひたすら歩んだ。
横川を過ぎ碓氷峠にさしかかると鬱蒼とした森林になり、当時、熊や狐、狸、鹿等が出没した。

 朝、高梨子を出たが碓氷の山の中で既に夕方になっていた。後閑の家には帰りたくない、このまま山の中で誰かに見つかることもなく死んでしまいたいと山道を登って来た。疲れで切り株に腰掛けて小鳥のさえずりを聞きながらぼんやりとしいた。

 素敵な原市の青年ともこれで会えなくなるとぼんやりと思っていた。私には優しい青年だった。時々、後閑まで遊びにきてお話をしてくれた。会っている時は楽しかった。

しかし私は結ばれないだろうと思った。養子で一人娘の私はお婿さんを迎
え、後閑の家で一生過すことを思うとなにもかもいやになっていた。その頃碓氷峠から軽井沢に抜ける道が拡張されていた。

私が座って居る切り株の場所へ、道路工事の親方のおじさんが見えて、こんな時間に何処へ行くのだ、と聞かれた。 その親方のおじさんは、ここからは夜になってしまい何処へも行けない、悪いことをする人は誰もいないから今晩はここへ泊まって行きなさいと諭された。

 碓氷峠は若い女の子の自殺の名所にもなっていた。奥深い森林の中で道に迷ったら2度と出て来られない。工事のおじさんは高い山の上から一人で山道を登って来る私を見つけ降りて来たのだった。

 そして、生きていれば必ず希望が持てる様になる、命を粗末にせず生きなさいと諭された。その夜そのおじさんのそばで夜の明けるのを待った。朝になったらおじさんが、おにぎりを持って来てくれた。家は何処かと聞かれた。高梨子ですと答えた。碓氷の山の中から高梨子まで20Kmはある。

 そのおじさんが高梨子まで歩きで付き添って連れて来てくれた。当時は工事現場に車など無く、ほとんどの仕事は人手で行っていた。本当に優しく、親切なおじさんでした。
私が座って居る切り株の場所へ、道路工事の親方のおじさんが見えて、こんな時間に何処へ行くのだ、と聞かれた。その親方のおじさんは、ここからは夜になってしまい何処へも行けない、悪いことをする人は誰もいないから今晩はここへ泊まって行きなさいと諭された。

 碓氷峠は若い女の子の自殺の名所にもなっていた。奥深い森林の中で道に迷ったら2度と出て来られない。工事のおじさんは高い山の上から一人で山道を登って来る私を見つけ降りて来たのだった。

 そして、生きていれば必ず希望が持てる様になる、命を粗末にせず生きなさいと諭された。その夜そのおじさんのそばで夜の明けるのを待った。朝になったらおじさんが、おにぎりを持って来てくれた。家は何処かと聞かれた。高梨子ですと答えた。碓氷の山の中から高梨子まで20Kmはある。

 そのおじさんが高梨子まで歩きで付き添って連れて来てくれた。当時は工事現場に車など無く、ほとんどの仕事は人手で行っていた。本当に優しく、親切なおじさんでした。
埼玉県の人でした。その時、高梨子の父に、もう後閑には行かなくていい、と言われ碓氷製糸に住み込みで働くことにした。  

 製糸工場では工場長に可愛がられ、工場長のそばで事務の仕事をした。暇の時は数学や、そろばん、帳簿のつけ方など教えてくれた。 先生のように色々教えてくれた工場長を今でも時々懐かしく思いだす。
私が後閑の家を失踪してから養父豊吉は馬にのり猟銃を携えて探しまわっていた。

 碓氷製糸に1年ほどいたが、養父豊吉がそこにも探しにきましたので碓氷製糸をやめ、隣の家の姉妹が
埼玉県の製糸工場に勤めているからそこへ行っていなさいと言われ、行った。

 ここでは製糸の女工さんをやった。
素敵な青年に後閑で初めて会ってから2年が経過していた。青年は20歳になり兵役に付いていた。埼玉の製糸工場で働いている時、青年が3年の兵役で青森にいたがが休暇で家に帰る途中、訪ねてくれた。

 しかし青年が面会で申し出た私とは会えず他の人が出てきた。私は18歳になっていたが未だ幼い感じだったので工場の担当者が分からなかったものと思う。この時は私と青年は会えなかった。。
 
 埼玉の製糸工場に2年ほど、居たがここも養父が探しに来る様になったので、東京の4女「きせの」姉さんの家に世話になり、お菓子屋さんにしばらく勤めた。
この間、養父は高梨子の家、上増田の「きよの」「きぬ」姉さんの所へ例のごとく、馬に乗り鉄砲を携えて探しに行った。

 養父は心当たりを探したが見つからず、「きせの」姉さんのいる東京にも出てきて捜した。ここでも見つからず、警察に捜索依頼したが、警察の人に対しても余りにも乱暴な態度と言葉使いの為、警察もあきれて相手にしなかった。この様に家出してからは私の逃避行が続いた。

 運動会で親しくなった青年は逃避行の間、時々訪ねてきて励ましてくれました。そして次第により緊密になり何時しか恋する様になっていた。そして一緒になりたいと思う様になっていた。青年は東京にも、兵役で休暇の時訪ねてきてくれた。

 東京に勤めて、2年位い経った時、高梨子の父が東京の大学病院で胃癌の手術をし、一旦は良く成ったが、秋の農作業で無理がたたり、寝たり、起きたりの状態になった。
ほどなく父が病気だから帰ってこいと言われ、高梨子に帰り、父の看病をした。父も私のことを、とりわけ心配していた。

 恋しい青年のことも父に打ち明けた。青年は農家の次男坊で、青年団でスポーツの部門で活躍、その後兵役で海軍にいること等を話した。しかし父は既にこの青年のことは知っていた。原市の5人兄弟の次男でかなり暴れん坊であることも。

 しかし私には優しくしてくた。私はこの青年と結婚したいと思い、病気の父に相談した。父はどんなことがあっても親、姉妹に心配をかけない覚悟があれば行きなさいと許してくれた。私はこの時21歳になっていた。

 父は昭和12年2月12日に亡くなってしまった。62歳だった。私は、今思えば父に心配を掛けどうしの親不孝ものだったと思う。

 父が亡くなってすぐに上増田の「きよの」姉さん、「きぬ」姉さんの所に遊びに行った。姉さん達には好きな人の所へお嫁にゆくことは許してもらえたが、「きぬ」姉さんの旦那さんにはもっと安定した人を紹介するからと反対さた。当時はお見合い結婚がほとんどだった。


 ある時、ふろに入っていた。当時のふろは薪を燃料として風呂場は家の外にあった。義兄は薪をくべながら、あきらめろと言う。「はい」と言わなければ義兄がその場から退散しない。熱さに耐えかねてあきらめる、と言ったこともあった。

 姉さん達の居る、上増田に1週間くらい滞在した。その間、養父が馬に乗り、鉄砲を携えて探しに来た。
 その時は姉さん達の家の本家が蔵のいくつもある大きな家だったので、蔵の中に隠してもらった。
 
                       Page top