成長する子供たち
 
 昭和30年長男は高崎高校に入学した。クラス編成試験が行われ1年1組に決まった。しかし家には入学金は無かった。主人が方々金策に歩いた。細野村に来てから初めての借金だった

 しかし、中々借りられなかった。当時貧乏の間最中で返してもらう当てなど無いと思われ、親戚でも貸してくれる所は無かった。最後に主人の弟の連平さんから借りられ、長男は高校に行けることになった。

 連平さんは私達が川崎にいたころ良く遊びに来て長男を自転車に乗せて遊びに行ったりして可愛がってくれた。
 長男は家から松井田駅までの4Kmを歩きで通った。高崎駅から観音山の下に位置する学校までさらに1.5Kmを歩いた。細野村から高崎方面に通学する生徒の60%は自転車で駅まで通ったが私の家では自転車を買ってあげられなかった。
 松井田駅から高崎駅まで汽車で約1時間、家から松井田駅まで約50分、従って食事を済ませて家を出るのが6時頃であり私は毎日朝5時に起き、長男と主人の朝食とお弁当を用意した。
 主人は家族のため、天気の日は休まず山仕事をした。休みは雨が降って仕事が出来ない時だけだった。

 お酒も飲まず一心に働いてくれた。私はこの頃家計を少しでも助けようと村の人に頼まれて着物を仕立てた。ある日保険屋さんに誘われて義兄名義の保険に入った。お金の余裕など無くどうしようか迷ったが強引な説得に負けて入った。半年ほど経って高梨子の長女「きわ」姉さんのご主人が急に病気になって亡くなってしまった。

 まだまだ先のことと思っていたのに義兄が亡くなり悲しい思いをしたが、保険が運良くもらえた。私は心の中で義兄が私達親子の窮状を天国から救ってくれたのだと感謝した。このお金で主人の弟の「連平」さんにお金を返すことが出来た。
 また学生服は次女の「きよの」姉さんの長男、琴ちゃんから頂いたものを着ていたが長男に学生服の新しいのを新調してあげらた。革靴も買えた。

 この頃は主人は体が健康なことも幸いして朝暗い内から夜は手元が見えなくなるまで山で仕事をした。私は畑仕事に村の知人から頼まれる和裁の仕事で一心に働いた。やがて長男が高校2年生の終わりに奈良、京都に修学旅行に行くことになったがお金が無かった。無理をしてでも行かせ様と思ったが長男が「自分で行ける様になってから行く、今回は行かない」と学校に断ってしまった。

 翌年、長男は高校を卒業した。3年の時、官費で学生生活を送れる難関の大学を受験したが失敗し、卒業と同時に主人の山仕事を手伝いながら勉強していたが、きつい重労働のため疲労が重なり健康を害してその年は受験出来なかった。

 半年ほど家で寝ていた。その間、主人は「まむし」を取ってきて焼いて粉末状にして長男に食べさせたり大きな木のうろこにいる熊の好物の幼虫を取ってきて焼いて食べさせたりしていた。
 やがて病気も回復し主人の親友の原市の真ちゃんに資本を出してもらい、自転車の販売、修理を在宅で細野村全体を顧客として約1年くらい行った。自転車も良く売れ、入学金と半年分の学費、寮費を貯めて東京の工業高等専門学校に入った。

 朝食、夕食付きの寮で部屋も6畳一間が割り当てられ日本全国からこの寮に入っていた。入学して半年後、長男は新聞配達の住み込みで働き昼間学校に通うと知らせて来た。
 親に負担をかけず自力で学費を稼ごうとの決心からだった。学校に入って1年ほどして長男が東京から夏休みに帰って来た。新聞配達で住み込みで学校に通っていたがお盆で休みがとれたので帰省した。 

 その時の姿が私の目に今でも焼き付いている。このままではこの子は死んでしまうと。顔は青ざめて土色がかっており生気がなく痩せ細っていた。

 朝4時起床、配達完了が7時半、8時までに朝食を済ませ電車で学校へ行き9時から午後3時頃まで勉強、帰ってすぐに夕刊の配達、食事を済ませて風呂に入ると9時近くなっていた。学校の復習は消灯の10時まで、疲労でこわした体が元通り回復していなかった体には耐えられるはずも無かった。

 ただ意志だけが親に心配かけず勉強したいのでこのままやり通せると言わせていた。「お前が死んだら私の生きる目標が無くなってしまう。お願いだから新聞配達は辞めて」と説得した。

 当時、私にも和裁の注文がかなり来る様になり、余分のお金が少し稼げる状態になっていたので私も手伝うので長男を学校の寮に戻してやって下さいと頼み、主人も納得してくれた。健康な体に1日も早く戻れるよう願って毎月の生活を切り詰めて生活費、学費を送った。残り1年を長男はもと居た学校の寮に戻り勉強に専念することが出来た。

 程なく成績も入学した当初と同じくトップクラスに復帰することができた。また通っている学校のボイラーのアルバイトを夜間授業が終わるまでの間出来ることとなり小遣いは自分で稼げる様になった。

 昭和36年バイクが通勤手段として田舎でも普及して来たが、この時主人は未だ自転車で山仕事に通っいた。

 長男が休暇で帰省した時、松井田駅からバスで帰るのですが、たまたまバスの中から山道を自転車を押して家路に帰る夫を見て苦労をかけて済まないと私に話したことが有った。

 この頃村の水道が出来た。高台に位置する私の家へも水源が板が沢の標高が高い所にあるので水は勢い良く大量に蛇口から出た。文明社会の中で始めて味あう水道の恩恵だった。水汲みの労働からは開放され畑にも散水することが出来、農作物の収穫も多くなって来た。
 やがて長男も学校を卒業でき、大きな会社に入社出来ほっとした。その後数ヶ月して主人にバイクを買うことができた。

 免許証をもらい主人は楽しそうに毎朝山仕事に通った。山坂を登る通勤がとても楽になったと聞かされた。この頃は山仕事も山の奥へ奥へと移り、自転車では山坂を押して登らなければならず、片道2時間もかかった。

 私は裁縫で得たお金で主人にバイクを買ってあげられたことを嬉しく思った。
長男が就職して間もなく、長女が成人式、その時、桐生の産婦人科の看護婦をしていた。

 長女が行く美容院のご主人の世話で伊勢崎の島田さんに嫁に行くことになった。
嫁入り仕度は、ほんの少ししかしてやれなかった。タンス、布団、着物は当座必要なものだけだった。
 
 昭和38年,お婿さん、昭一さんとお父さん、が結納のため長女「美也子」の実家、細野村へ高級車トヨタのクラウンでやってきた。当時村にはこの様な高級車は1,2台しか無かった。

 お婿さんの家は伊勢崎で靴屋を営み羽振りが良かった。
一緒に来た美容院のご主人は伊勢崎に帰ってから余りに美也子の実家がみすぼらしいのでもっと良家のお嬢さんを紹介すると昭一さん及びお父さんに打診した。

 無理は無かった。4坪程の台所と、12畳の部屋が一つだけ、天井は張られておらず、廊下もない家だった。

 苦しい生活の連続で家を増築したり、修復したりする余裕は全く無かった。しかし昭一さん及び、お父さんの決心は全く変わらなかった。それどころか結納金に家の改造費まで出してくれた。

 このお金で12畳の部屋を床の間付きの6畳二部屋と3畳の隠し部屋、それに廊下と洗浄水つきのきれいなトイレのある家に作り変え、新しい家からお嫁に出すことが出来た。貧乏のどん底にいたが私はこの時娘を無事お嫁にやれたことを有りがたいことだと心の内で思った。この思いは生涯続く。

 2年が過ぎた。次女「栄」が東京のデパートに勤めていた。成人式を済ませた10月、工業用ミシンの商売をしている林さんに嫁いだ。これも上の姉同様、タンス、布団、着物位いしか用意してやれなかった。但し林さんも何も要らない、身一つでお嫁に来て欲しいといわれた。

 二人の娘を無事お嫁にやり娘の幸せを祈った。
 長女は慣れない靴屋の仕事で苦労したが、子供が生まれて2〜3年してポーラ化粧品のセールスを始めた。初めは売れず何回も辞めようと思ったが、やがて全国で1位、2位の成績を連続して取るようになった。やがて化粧品だけでなく自動車、その他の販売業界で有名を馳せるまでになった。

 この成功で伊勢崎の一等地に鉄筋コンクリートの3階建てのモダンな家を作り、1階に化粧品店及び事務所、2階に学習塾に貸事務所、2階の一部と3階を自宅とする家を建てることが出来た。

 この頃は靴屋は大型店に押されて振るわず、閉店していた。長女は化粧品セールスの成功で更に伊勢崎の1等地に500坪の土地を購入した。

この時お嫁に行ってから既に15〜16年経っており嫁ぎ先のお父さん、お母さんは既に亡くなっていた。長女「美也子」は自分を見込んでくれたお父さんに心の中で感謝した。

 旦那さんの昭一さんは化粧品店舗の社長として10人近くいたセールスマンの世話や集金、仕入れ等積極的にこなす一方、セールスで帰宅が遅くなる長女の家事も手伝ってくれた。

 次女は嫁いだきり5年くらい1度も実家には帰って来なかった。商売が忙いことと、亭主関白で帰ってこられなかった。

 あまりの亭主関白に生まれて1年ほど経った長男をおぶって自殺しようと思い群馬の実家には寄らず、榛名湖畔をさまよっていた。ご主人からの通報により警察に届けると共に私の主人は「子供を連れていれば自殺は中々出来ない。

 榛名湖畔当たりがあぶない」と言ってバイクで榛名湖に向かった。そこで夢遊病者の様にさまよっている次女を発見した。
それからは度を越した亭主関白も和らぎ2年に1度ほどご主人と一緒に群馬の実家に帰ることが出来た。

 以後は、良く辛抱して子供を育て、親に心配をかけずやってくれたと、心から頭が下がる。心の芯は強く、人に優しい娘だった。

 次女の主人、林さんは工業用ミシンを商売し、現在では工業会の役員をしたりして平成の長期不況にも影響されず、商売は堅調に伸びている。

 次女が嫁いでから3年後、長男が27歳の時、東京の会社で生活の目途が立ったので自分で見つけた日本水産丸の内本社に勤める22歳の人と結婚した。結婚式は2人で蓄えたお金で挙げた。親には蓄えのお金が無かった。お嫁さんは仙台生まれ、東京育ちで、良く長男を支えてくれている。

 後年、2人で働いて、男の子2人、慶応大学、横浜国立大学を卒業させ、平行して家も新築した。3階建ての大きな家をお嫁さんと2人で作った。

 1階はお寿司屋さん、2階は二所帯の貸家、3階を4LDKの自分たちの住まいにしている。 屋根裏を4階部分とし、収納場所と子供たちの習字教室にし、お嫁さんが教えている。
終戦後苦労を共にした子供たちが立派に成人してくれたことを主人と2人心から喜んだ。

 長男が結婚して5年ほど経って、末の次男が静岡の航空自衛隊から帰って高崎の梁瀬自動車に勤め、程なく結婚することとなり、全財産100万円をはたいて家を増築した。

 1階が台所と玄関、風呂場、2階に6畳二間の部屋をそれまでの6畳二間、3畳の部屋にプラスした。一緒に住んでいたが、孫娘が生まれて1年くらいしたら別になって暮らしたいと、高崎に出て行った。

 それから2人だけの生活が始まった。この頃になると東南アジアから安い木材が輸入されるようになり山仕事も無くなってきた。代わりに近所の人5〜6人で「フルゴオリ」(土木の会社)へ主人は行く様になった。朝は6時出発、帰りは夕方6時。天気に関係なく出勤するようになり日曜日は休める様になった。

 平穏な生活がしばらく続き不幸が突然やってきた。主人が仕事中頭上高く張られているワイヤーが突然切れて鉄の塊が主人の腰を直撃した。瞬間に腰をひねって避けたが間の会わず大腿骨を折り出血多量で病院に運ばれた。幸い脊髄は損傷していなかったので半年位の入院で退院できたが腰に軽い障害は残った。

 入院中の医療費は労災扱いで全額出たが休業補償が出て見舞金が少し出ただけだった。大手土木建築会社の下請けだったのでこんなものとあきらめた。
但し仕事場には10ヶ月後に復帰出来た。

 私は和裁の仕事が認められ、碓氷製糸や高崎のデパートから常時仕事が来る様になった。仕立て物は、江戸ずま、付け下げ、振袖、帯、高級なものばかりだった。今から20年前で、月に15万円位いの収入があった。

 このお金で九州、四国、沖縄、
北海道、ハワイと農協で企画した旅行はほとんど参加することが出来た。平成元年頃、主人は勤めをやめて、ウド、ねぎ、里芋、その他野菜を栽培し出荷する様になった。主人は体が丈夫で勤めをやめた70歳頃もよく働いた。

 しかし農作業では怪我をした腰が時々痛み、かばいながら働いた。
この頃から主人は積極的に村や町の人と交流するようになった。農協の役員、神社
の役員、国会議員、福田赳夫の「福田会」の役員、区長、町長選挙では細野地区のまとめ役、軍人恩給の会の会長と世話役を喜んで買って出た。

 私の家の西側一帯は畑作地帯であり、かつ高台であった。近くに妙義山を望み夏になると雷と共に豪雨に見舞われ畑の峰を通る農道が時々補修しなければ使用出来ない状態になった。
 そこで農道を武田松井田町長、萩原町会議員の協力を得て舗装道路にし作業用の軽トラックや耕運機が使用出来る道に作り変える計画案を村の人に示した。

 この時、負担金が20万円程掛かるのでこの道路を利用する地主が賛成してくれなかった。そこで主人が一人で負担金を出した。今では車や耕運機を使用する人が喜んで使用している。完成してしばらくして関係する地主が負担金を持って来てくれた。

 今では主人が完成させた農道として多くの人から感謝されている。
農作物も良いものを作り出荷していた。一方、カラオケが好きで村の若い人達と合
同でカラオケ愛好会を作り楽しんでいた。旅行にはバスの中や旅館でカラオケの司
会役を勤め、新曲を教えるほどだった。若い時、バイオリンをやったことが有るので音感も確かだった。

 私も家で新曲を教わったが、そんなリズムでは無いと、よく怒られた。それでも何曲か持ち歌を歌える様になり盆踊りの時行われるカラオケ大会で歌える様になっていた。

 子供達が孫を連れてが時々遊びにきてくれる2人きりの生活だが充実した日を過していた。
  
   
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