恋愛・結婚太平洋戦争
 

  養父からの逃避行を続ける毎日が過ぎて行った。1箇所に長く居ることは出来なかった。
養父も連れ戻そうと必死になり、私は戻って言いなりの生活に戻る位なら私の人生終わりに しても良いと思って逃げていた。このよ うな日常で私を大切に思っていてくれる青年への思 いは日増しに 大きくなって行った。
 父が亡くなってしばらくして、恋する青年から3年の兵役を終え、川崎の日本鋼管に就職出来たと便りが届いた。しかし養母から一緒になることを厳しく拒否された青年の手紙には出てこいとも、結婚したいとも、一言も書いてはいなかった。
 しかし、兵役の合間に私を訪ね励ましてくれた青年と会っているとき言い知れない優しさを感じこの人となら一緒に生きて行けると思った。私は養父から隠れて生活することに疲れていた。逆に青年と結婚したいと言う思いは益々つのった。
 母や姉さん達から川崎に行っても良いと、許しが出たのが昭和12年4月10日だった。朝8時、高梨子から新緑の天神山を徒歩で松井田駅まで歩いた。桜の花は満開で山からの風は心地良く、小鳥のさえずりも心を浮き立たせていた。

 私は午前9時発の汽車にのり高崎で乗り換え一路上野に向かった。上野駅には2時頃着
いた。上野へは東京の姉さんの所に以前かくまってもらったことがあるので一人で行くことが出来た。川崎に着いた時は4時頃になっていた。川崎の日本鋼管が何処に在るのか分らなかったが、とにかく恋する青年二郎に会うために出て来た。駅に着いたが始めての場所で何処に行けば良いか全く分らなかった。
 駅を出て大きなたばこ屋さんに入っていったら優しそうなおじさんがいたので恋する青年 二郎の下宿先の電話番号を見せどう行けば良いかを尋ねた。親切なおじさんは電話をしてく れた。「16〜1 7歳の娘が今貴方 を訪ねて、ここに居るからすぐ迎えに来てくれ」と電話した。
 青年はそんな年頃の女性に心当たりは無かったが、誰かと思いながら来た。私 はその時 22歳になっていたが見かけは16〜17歳位にしか見えなかった。二郎は「誰かと思えば、君か」と喜んでくれた。

 それから一緒に二郎の下宿まで行った。日本鋼管の寮で男ばかりが暮らしていた
寮のおばさんが、近くに姪っ子が居るのでそこに泊まる様にしなさいと、宿を心配してくれた。

 2日程その家にお世話になった。私より年上に見えたが同じくらいの年のきれいな人で田 舎者の私に親切にしてくれた。その間に二郎が臨港アパートを見つけてくれたのでお世話頂いたことを感謝し恵子さんと呼んだ
その人と別れアパートに行った。
 6畳,4畳半と1畳程の小さな台所が付いた部屋だったが二人には十分の広さだった。お茶碗とお箸と数枚の お皿と小さなお膳があるだけのつつましい生活だったが、養父に追いか けられることから開放され、また最愛の人と一緒に居られる幸せな日々だった。
この人と一緒になれなければ死んでしまってもかまわないと思いつめた人と一緒に居られる幸せで毎日毎日が幸せで、生きていて良かったと思う日々であった。

 頼れる人が側にいて追いかけられる毎日から開放されたはずの私だったが、数年間の逃避 行は時々夢の中に現れ、怖い思いをしたが夢と分って安堵したこともしばしばだった。半 年程して川崎大師の 裏200M位いの所に1戸立ての家を主人が見つけてくれた。4戸並んでその内の道路に面した一軒を借りることができた。
 庭があり松ノ木も植わっていた。和室三部屋に6畳程の台所の小さな家だったが庭には花 を植えたり野菜を作れる場所もあり、主人に感謝した。休日には映画や演劇にも連れて行っ てくれた。楽しい 新婚生活だった。朝早 く起き、夫の朝食を用意し、お弁当を作るのがとても楽しく夜も 一緒に食事することが出来、当時として収入も かなりあったので幸せな毎日だった。
 1年が経ったが子供はできなかった。私も主人もそろそろ、子供が欲しくなり、それからずっと私は毎日の様に川崎大師にお参りした。時々主人とも一緒にお参りした。約1年後、昭和14年10月21日、大師様の縁日の午後2時ころ長男が生まれた。結婚して2年目私は24歳になっていた。

 主人「二郎」も大変喜んで弘法大師の弘の字と吉日の吉をとり命名した。男の子なのでとても喜んでくれた。
生まれてから3ヶ月目長男が風邪をこじらせ肺炎になってしまった。熱がさがらず私の命に代えても、この子を生かして下さいと神仏に祈り、夜もほとんど寝ずの看病をした。

 私は心労で4キロ程痩せてしまった。20日ほどして長男は元気を取り戻した。
その後、半年位いして呉服屋さんが家に来た。その時、きんしゃの着物地と道行きコートを買ってもらった。この時主人はなんと優しい人なのかと感謝し、涙が止まらなかった。

 長男が生まれて7ヶ月になった頃、横浜に買い物に出た。駅前の広い通りから少し横丁に入った所を行った。道の真ん中に財布が落ちていた。周りを見たが落とした様な人影は見えなかった。後で届ければ良いと思いねんねこの中に財布を入れて歩み始めた。数十歩歩いた所で怖そうな男の人に呼び止められた。

いきなり「貴女は落ちていた財布をねんねこの中に隠したろう。俺の後をついてこい」と凄まれ猫に狙われた鼠の様にどうして良いかわからず逃げることも出来ず付いて行った。

 背中の長男は気配を察したのか、あらん限りの大声で火の付いた様に泣いた。すれ違う人が不審な目でその男を見た。何人かすれ違った後その男は姿を消した。
今でも私は長男に助けられたと思っている。

 夜、帰ってから主人に話したらお前が子守子の様に幼く見えたのでかどわかそうと物陰で狙っていたのだろう、都会は悪い人が多いから危険を感じたら逃げるか、助けを求めるかしなさいと叱られた。

 一方、主人は当時、金と命の交換会社と言われた日本鋼管で1日1日を大切に過してしていた。また、柔道が好きだったので日本鋼管の代表選手であちこちの試合に出ていた。
講道館の三船久蔵も時々会社の道場へ指導に見え、相手にさわるか、さわらない内に相手が投げられている空気投げのことも話してくれた。

 日曜日には電車で東京に行き、デパートで買い物をしたり、芝居見物をしたりした。レストランでも時々食事をした。

 楽しい日々であったが時は1日1日と戦乱の時代とな り出征して行く人が、周りでもだんだんと多くなって来た。主人と私と長男3人の幸せがこの先、何時までも続い欲しいと何時も心で念じていた。

 それから約1年後私のお腹のなかに長女がいた。
その時、主人には召集令状が来ていた。10月15日出征と決まっていた。主人は自分が出征しない間に長女が生まれて来て欲しいと願っていた。

 10月12日長女が生まれた。この時も大変喜んでくれた。大きくなったら美しい女の子になるようにと「美也子」と命名してくれた。長女が生まれて3日目、昭和16年10月15日、心配をかけまいと、お産でまだ寝ている私に内緒でひっそりと出征し横須賀海兵団に入隊した。

 数日して主人は戻った。その時初めて私は打ち明けられた。ニュウーギニア方面に輸送船で出船することになったこと、召集令状が来て、しばらくは家族に会えないこと、等を話してくれた。私に心配をかけまいとした、主人の心使いに涙が止まらなかった。

 同時に今までの幸せな生活が音を立てて崩れていくのではないかと心配でいっぱいになった。出征の日、長男を抱き上げ頬ずりしてくた。私は、まだお産で休んでいた。一人ぼっちの私のために主人の妹がお手伝いさんに来てくれた。
 しかし主人の表情は憂いに沈んでいた。養父豊吉が見つけにきたら守ってあげられないこと、自分が戦死したら家族はどうなってしまうのだろう、さぞ心の内は何とも言えない気持ちであったろうと思う。

 私は心の悲しみを追いやって、どうかご無事でと万感の思いを込めて主人の門出を祝ったのを覚えている。

 お産のひだちも良く私より5歳年下の妹、愛ちゃんは食事の用意をしたり、長男を遊ばせたり、風呂に連れていってくれたりした。また長女の産湯も進んで引き受けた。3ヶ月程で私一人で充分出来る様になったので、主人の実家群馬の原市に帰って行った。

 やがて12月8日、日本は米英に宣戦布告し戦いは益々激しくなって行った。私は子供が寝ている朝早く、近くの神社に毎日お参りし、主人の無事を祈っていた。

 私の神社へのお参りは主人、二朗が船に乗っている間ずっと続いた。主人が必ず無事で戻って来ます様に、私と子供たちのためにどうか愛する人が無事であります様に長く長く一心に祈った。神棚には朝、晩影膳を欠かさなかった。

 南方方面に補給物資を満載し、航海を終えて戻るのはたいてい6ヶ月はかかった。 戻ると1ヶ月から長い時で3ヶ月位い船の修理でドッグに入っていたのでその間は横須賀に居たので外泊を許され川崎で共に暮らすことができた。
 休暇を取って長男、長女を連れて芝居見物や寄席などにも時々行った。3歳を過ぎた長男は少しもじっとしておらず、舞台に駆け上がり、「あれー」と好奇な瞳で見つめ叫ぶので寄席よりもこちらの方が面白く、満場の笑いに包まれることもしばしばだった。

 また家では近所の遊び友達で年上の男の子を泣かしてしまうので謝りに行くのが私の日課になってしまった。
時には年長の男の子にお前のまつ毛は長すぎるので短くするといって殆んど無いくらいに切られて帰ったこともあった。

 主人と一緒に居られる時は最高の幸せであり、時は一瞬の内に過ぎて行く。しかし待つ時間は長く来る日も来る日も主人の身を案じていた。
2年の歳月が過ぎ南方方面の戦局はラジオからのニュースでは優勢が伝えられていたが主人からの話では一進一退で決して楽観出来る状態では無かった。

 二歳下の次女も主人が南方方面に航海中に生まれた。私にとっては主人の安否を気遣いながらの心細いお産だった。しかし時々は帰り主人は航海中の出来事を時には話してくれた。

 ニューギニア、ガダルカナルなどに物資を補給する為、何十隻もの船団を組んで航海するのだが、敵の潜水艦により毎日の様に沈められ目的地に到達出来るのは、3分の1位いになってしまうと。

 輸送船は戦艦のように防水船倉が幾つにも分かれていないため潜水艦からの魚雷1発で船は2つに折れ、大きな水柱と共に瞬時に沈んでしまう。沈む時、大きな渦が生じ、船から相当離れていないとその渦に巻き込まれてしまい2度と浮いて来ない。

 その為、船団を組んでいても救助される人は少ない、魚雷が当たればまず、助からない。攻撃は夜が主なので朝になると今日も1日永らえたと安堵の胸をなでおろす。一方南方の海は夜光虫が無数に美しい光を発し、南十字星に連なる満天の星は、えも言われぬ美しさで戦争でなければこの世の楽園と思うと。

 上陸する南の島民も長い間日本の南方統治領になっていたが日本人には皆好意的であり島の長を中心として歌や踊りでかがり火を焚き一晩中歓迎してくれた。この様な時、別世界にいる錯覚に捕われ生きていたらもう一度訪問したいと思っていると。

 外洋に出ればイルカやマグロが船の後を追いかける。島近くでは油を流した様な静謐な海に手で水をすくえば星の瞬きを水面に写した様な夜光虫が光る、お前にも見せてやりたいとも話してくれた。

 昭和19年半ば、制海権は敵の手に渡り、船団を組んで行っても目的地に到着できる船は数隻になっていた。数十隻で船団を組んで横須賀を出港し激戦の南方に食料、弾薬を補給する航海は敵潜水艦の格好の餌食となり夜が明ける毎に大型の船から1隻、また1隻と姿を消していった一航海毎に目的地に到着出来る船は激減して行った。

 主人の乗った船も魚雷攻撃を受けたが魚雷が船底に当たり天井に突き上げられる衝撃を感
じたが幸い不発に終わったと話してくれた。

 南方の海で雲の間に点の様に見えた飛行機は次の瞬間には船のマストに迫っている。輸送船の機銃掃射や軽機関砲では飛行機は落ちなかった。弱き羊の群れ輸送船も時には反撃することもあった。

 味方の船団からの通報で敵の潜水艦の潜望鏡がかすかに発見された。主人の乗っている船が攻撃されにくかったので水雷攻撃をする様指令された。

 高速でじぐざぐの魚雷回避運転で現場に近づき水雷を5〜6個落とした。しばらくして重油が大量に浮いてきたので潜水艦に当たった様だ、と時には戦闘の様子を話してくれた。しかし戦況は刻一刻と悪く成って行った。

 主人はこの時、今度出て行けば必ず沈められ帰ってこられないと感じていた。
家族の為、妻の為俺を頼りにしているものの為生きなければと思い詰めていた。
軍隊は上官に逆らえばひどい厳罰が待っていた。激戦地に追いやられるか船を下ろされるかの処罰が待っている。しかし船を下たい一心から賭けに出た。

 ある時上官と喧嘩をした。予想道り船を下ろされた。主人の乗っていた船はこの時の航海で南の海に沈んでしまった。主人の予感は的中し命拾いをした。

 昭和19年10月レイテ沖海戦を最後に日本の戦艦はその戦力をほとんど消失していた。それからは主人は、家に帰って来ることは無くなった。横須賀に入隊して来る新兵の教育係となり、半年が過ぎた。

 昭和20年初め、主人は清水の航空隊勤務となり、静岡の三保に住んでいた。天女伝説のある三保の松原はすぐ近くだった。当時、
清水市には造船所があったので毎日の様に空襲があった。富士山を目安にB29が飛来し、山陰から出た時は上空にきて爆弾や焼夷弾を落として行った。

 私は空襲の度に予科練の防空壕に避難した。長男5歳、長女3歳、次女1歳を連れての避難で死ぬような苦しみの連続だった。空襲のあと建物が炎上し、その後夕立のような雨が降って来た。町並みの半分くらいが炎上する凄まじい攻撃であった

 防空壕の回りの建物が燃える熱で、余りの暑さに防空壕から出て目にする光景はさっきまで在った建物が焼け焦げ柱だけになっていた。造船所や航空隊に近かったせいも有ってこの様な事が日常茶飯事となっていた。

 ある時、子供が熱を出し連絡船にのり1時間余りの
清水市の病院に行く途中戦闘機の機銃掃射を受けた。甲板に当たり跳ね返った弾がヒーュンヒーュンと音を出して私や子供たちの周りを駆け巡っていた。このような状態の中でも子供たちは助けなならないと船倉へと夢中で非難した。

 何人もの人が足や体を射抜かれ血だらけになって倒れていた。良く子供や私に弾があたらなかったものと思い出す度に悪寒が走った。
空襲警報のサイレンは毎日数回鳴り響きその度に電灯の明かりを黒い布を被せて暗くして光が外に漏れないようにしていた。

 この頃主人は、予科練の教育係、教範長として60人位いの先生をしていた。 家は借家だったが、毎日家から出勤していた。
週末になると毎週の様に予科練の生徒が遊びにき。当時は配給で粗末な物しか出せなかったがお饅頭やうどんなどを作って時にはふるまった。皆、美味しい美味しいと食べてくれた。
 そして長男を抱き上げ、7ツボタンの歌を何時までも、何時までも歌い続け、立派な飛行機乗りに成りお国の為に尽くすんだと純粋な心で語り合っていた。私も予科練の遊びに来る生徒さんからお姉さんの様に慕われていた。昭和20年6月、清水の予科練は解散となり、7月主人は名古屋の航空隊所属となり、また別れて生活することになった。

 当時日本のほとんどの都市は空襲に晒され安住出来る場所は何処にも無かった。
私は6月の末、主人の生家に3人の子供を連れて帰った。帰る日、予科練の生徒達が長女を、おんぶしたり、長男の手を引いたりして駅まで送ってくれ、何時までも何時までも列車が見えなくなるまで手を振ってくれた。

 若く純粋な少年達でした。この少年達は台湾や沖縄で何人もの人が戦死したと終戦後、主人から聞いた。家に遊びに来て楽しそうに談笑していた姿を、悲しみと共に時々思い出す。その後子供達を連れ空襲のない群馬の山間部に疎開した。
 主人の実家、私の生家、次女の「きせの」姉さん宅に次々に世話になった。主人の実家は群馬の原市にあり大きな農家だった。主人の父は健在であり私や子供達を好意的に扱ってくれた。

 1箇所にしばらく世話になった。皆良くしてくれたが3人の子供を連れているので気が休まる安住の地は何処にもなかった。

 自分達だけで気兼ねなく暮らせる家が欲しかった。そこで 三女「きぬ」姉さんのご主人の紹介で「きぬ」姉さんの家から山を下った500M位の「あしなだ」に借家をし子供達と3人で暮らした。

 背後は山、前には増田川から分流した小川が流れそこで野菜を洗ったり、洗濯をしたりしてそこに集う人達と親しくなり主人のいない寂しさはあったが落ち着いた生活が出来る様になっていった。しかしこの時、まさか日本が負けるとは思っていなかった。

 昭和20年8月15日、重大な放送があるのでラジオの前に集まる様に村の役員から通達があった。大勢の人がラジオの前に集まり固唾をのんでいた。放送は天皇陛下の玉音放送であり、戦争に負けたことが告げられた。張り詰めていた気持ちが一挙に崩れて行くのを感じた。

 子供達には大切にしていた新しい下駄と洋服は取っておく必要も無くなったので使いなさいと言ったのを覚えている。
先の望みも無くなり、張り詰めていた気持ちが崩れ体の力が抜けて行くのを感じた。何故か涙がとまらなかった。

 2,3日後には占領軍が男は強制労働に、若い女は遊郭に連れて行かれるかもしれないと言う噂が流れ不安の時をすごした。
玉音放送から1週間過ぎた午後3時過ぎ、主人が大きなリュックを背負い手に大きな
荷物を持って、玄関に立ち、大きな声で「たき」は居るか今帰ったと叫んだ。私は一瞬夢ではないかと我が耳を疑った。

 しかし玄関に行って見た。まさしく戦争中ずっと無事を祈り続けた主人がそこに立っていた。私は瞬きもせずお帰りなさいともいわず、じっと見つめ続けた。しばらくして現実だと分った時、止め処なく涙が頬を伝わった。

 そして主人がいれば子供達と共に強く生きて行けると喜びが体中に漲ってきた。

 

 
 
 
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