松井田城落城記

開戦前夜


大道寺新四郎政次は父大道寺駿河守政繁、母おきしの方と共に武州川越城から
ここ松井田城へ北条早雲4代目北条氏政の命により10年前入った。
父は氏政の弟、氏照、氏邦、氏規らと肩を並べる北条家にあって5指に入る歴戦の勇将であった。

 今から15年前、関東は上杉謙信、武田信玄が度々侵攻し、大道寺駿河守政繁も軍を率いて対戦していた。しかし軍事の天才の2人に対しては防戦を余儀なくされていた。

 しかし10年前、武田勝頼、上杉景勝の時代になってから関東全域に勢力を
拡大した北条氏政は関東の北の要衝としてそれまであった松井田城を4倍の規模に拡大し武田や上杉の侵攻に備えた。

 ここに北条家屈指の勇将大道寺駿河守政繁が松井田城10万石の主将に任じられた。また川越城8万石も併せ持っていた。

 松井田城は妙義山、金鶏山、白雲山、谷急山、等、1000mを越す急峻な上信越の険しい山並みの麓、関東平野の喉首に位置する碓氷峠を下った要衝にある。

 妙義山が眼前に迫り、麓は鼻曲山を源流とする碓氷川が満々と水をたたえ江戸に通じる川舟の最上流、船泊り、烏泊が肉眼でかすかに判別できる標高100メートル程の山全体の上に築かれていた。

 幅1000m、奥行き600mの小高い峰の上に本丸、二の丸,が築かれ丸は堅固な要塞と化していた。
本丸、二の丸,の間には自然の沢や切り込んだ谷により敵兵が容易に近づけ無い構造になっていた。

 また、鉄砲大将、源藤内蔵、木部官兵衛、矢野七郎左衛門ら、千石の武将が総計600丁の鉄砲を自在に操っていた。長篠の合戦で武田軍団が滅びた教訓を生かし特に日々鉄砲の訓練を怠らなかった。

 天正17年10月大道寺新四郎政次は松井田城から馬で西牧城に向かっていた。約12Kmの山路である。信州、佐久に通じる和美峠の山の上に城が築かれ城将、多米長定、城代大谷喜俊が約1000名の将兵で佐久街道からの敵の侵攻に備えていた。

 当時 九州を平定した豊臣秀吉が小田原に兵を進める風聞が聞こえていた。西牧城は松井田城の支城の位置づけを担っており、父と共に何度も行き来して
いた。

 城将、多米長定の息女、みわ姫は新四郎より2つ年下の16歳になっていた。2年程前美しく成長したみわ姫を初めて見た時、新四郎は淡い恋心を抱いた。
みわ姫も凛々しく成長した新四郎に思いを寄せる様になっていた。2年の歳月は何時しか2人を離れられない仲にしていた。

 今、父の名代として城将、多米長定に会うために馬で片道約2時間の途上にあったがみわ姫との会瀬をもっと楽しみにしていた。

 あれは4ヶ月前、松井田城から馬で30分ほどの土塩の奥に位置する千が滝に各自馬に乗り遠乗りをした時のこと、6月中頃、40m程の高さから落下する滝は飛沫が太陽にあたり、虹色に光っていた。
 2人は滝つぼの周りを人、1人が通れる細い道を手を繋いで渡った。道の下
10mは、飛沫で白く煙っている。

 美しく聡明なみわ姫は馬にのり、なぎなたの腕も城の兵と互角に渡りあえる男勝りのお転婆娘であったが女性としての優しさも兼ね備えていた。
新四郎としっかりと手を繋いで滝つぼの近くの川原にたどりつき飛び散る飛沫がかろうじて避けられる場所でお互いの瞳を見つめながら話していた。

 突然上州の山岳地帯特有の雷と激しい豪雨に見舞われ2人は滝近くに建つお堂の中に入り雨宿りをした。

 お堂の中で雷に震え、しがみついてくるみわ姫を抱きかかえている内に甘い女性の香りと美しい瞳を見て話し合っていると、瞳の中に自分の全てがとけてしまいそうな甘美な雰囲気の中で、いつしか口付けをし着物も剥ぎ取り、2人は結ばれていた。

 みわ姫はささやいた。「私は父といる貴方にお茶をお出しした2年前からお慕いしておりました。このようになって、とても嬉しいわ。これから先ずっと貴方と一緒にいたいわ。」

 新四郎も告白した。「貴女を初めて見た時から貴女のことが頭の中一杯に広がりしばらく会わないと夢の中に貴女が出てきました。これからは貴女を離さない。しかし、小田原からの知らせによれば近い将来北条5代の命運をかけた戦が始まるかもしれない。

 その時私は父を助け戦いに参加する。命長らえた時、必ず私の妻とする。」こう約束して別れた。
 今、新四郎は父、大道寺駿河守政繁よりの武器、弾薬、備蓄食料の方針について父の名代として城将、多米長定に会おうとしている。
従うは剛勇の士、児玉五郎左衛門利久である。児玉五郎左衛門利久は智勇兼備の勇将で新四郎のもり役でもある。

 剣や槍、とりわけ戦いの虚実を寸時に見分け、兵を自らの指の様に進退するする術を新四郎に実戦の中で指導した。
西牧城は信州佐久より、真田昌幸、幸村父子、小笠原衆の関東進出の要衝にあたり、度々衝突していた。

 新四郎は児玉五郎左衛門利久と共に兵500を率いて松井田城より応援部隊を率いて15歳を初陣として数回、参戦していた。

 敵も真田昌幸、幸村父子の進出の時は見事な進退をし全面衝突は回避された。しかし戦いの中で兵の配置の虚実を見分け進退を一糸乱れずに動かすことが兵を消耗しない為に如何に大切であるか新四郎は18歳の若さにして会得しつつあった。

 鉄砲大将、木部官兵衛も兵を引く時の後詰めとして長柄隊を率いて真田昌幸、幸村父子との対戦の時は新四郎と行動をともにした。
西牧城は松井田城からは碓氷川を挟んでそそりたつ妙義山の裏側に位置する。通常は4時間の道程も戦時には2時間で到達できる。

 児玉五郎左衛門利久は35歳になっていた。5尺8寸の引き締まった体躯の中に合戦の駆け引きに長けた鋭い眼光と知性も宿していた。大道寺駿河守政繁から新四郎のもり役を命じられてより自分の全てを新四郎
に注ぎこんだ。

 新四郎も同じ5尺8寸のやや細身の美丈夫に成長していた。2人は野菊の咲き乱れる道を登り西牧城に入り城将、多米長定に謁した。
がっしりとしたやや小太りの5尺5寸の体躯からものに動じない静けさをたたえていた。 新四郎は父大道寺駿河守政繁からの小田原城を取り巻く情勢について話した。
北条氏政が豊臣秀吉の惣無事令を無視して沼田の名胡桃城を奪取した件を発端として言い訳言上の名目で北条氏政に大阪に来るよう再三督促が来ていた。

 豊臣秀吉は今や九州征伐を完了し徳川家康をも配下として強大な勢力に成長していたが関東に覇を打ち立てた北条が成り上がり者の秀吉の命に服する気持ちは全く無く、決戦準備のため小田原城及び支城の防備充実のために時をかせいでいた。

 北条氏政の弟、氏規は氏政の命により時を稼ぐべく秀吉に謁していた。氏規は兄に代わり当主となったならば北条家の行く末を磐石なものになしえたであろうと期待された逸材であった。

 秀吉に拝謁し、言い訳言上している間に秀吉の器の大きさ、威厳に打たれて兄が目を覚まさない限り北条も軍門に下るであろうと思った。

 氏規は小田原城に帰ると天下の情勢を氏政、氏直父子に説明した。しかし考え直してはくれなかった。
ここに氏規もまた存分に戦って散る道を選んだ。

 戦での盟友父大道寺駿河守政繁にも氏規から天下の形勢が伝えられた。小田原城及び関東各地に点在する支城を守りの拠点として秀吉軍20万を向かえ打つ。過去上杉謙信や武田信玄に攻められた時、小田原城は難攻不落であった。

 今回も十分な武器弾薬、兵糧米で持ちこたえ長期戦になれば秀吉軍は引き上げるであろうとの氏政、氏直父子の戦略であった。
しかし、氏規から伝えれれた上方の情勢は容易ならざるものであり今までの戦いと様相を事にしていた。

 篭城し、難攻不落の小田原城を守るために関東各地に点在する53の枝城もまた城を拠点に侵攻軍を食い止める方針に決した。
ここに長期戦に持ち込むために、北国からの攻め口、松井田城及び西牧城の戦略上の位置付けが非常に重要でとなった。

 父大道寺駿河守政繁の予想では来年早々には戦いが始まるかもしれない、そこで食料、弾薬、水の手の確保を少なくとも1年は持ちこたえられるよう指示され書付と共に城将、多米長定に差出し戦いが始まるここ2ヶ月の間に完了する様要請した。

 また援軍を出す際の情報の伝達手段、敵を迎撃するための拠点の確保等新四郎と児玉五郎左衛門利久は城将、多米長定と2時ほど話しあった。時間も遅くなり今日は西牧城に泊まることになった。

 夕食時、父多米長定の計らいでみわ姫、も同席した。ここ1年ほどの間の娘の様子に新四郎を好いている様子が見てとれ、まだ年若い2人に婚約はしていなかったが内心ではこの若者に嫁がせても良いと思っていた。
 真田昌幸、雪村父子との戦いで見事に兵を進退し自らも敵の虚をついて突入する勇敢さにこの若者を立派な武将にしたいと思うようになっていた。

 新四郎と児玉五郎左衛門利久それに城将、多米長定は夕食の膳でくつろいでいた。みわ姫もお茶やお酒を持参して短い間、同席して、時々熱い視線を新四郎に送ってくる。

 お酒は程ほどにしか飲めない新四郎は児玉五郎左衛門利久と多米長定の杯の応酬にいつしか席を抜けだし2人だけとなり庭の錦鯉が泳ぐ池のほとりに手を取り合って佇んでいた。 

 みわ姫は新四郎を見つめて話した。「私、千が滝でのこと初めてだったので恥ずかしかったわ。でもあれから思うのは新四郎様のことばかり、この胸は切なく、恋しくはち切れそうだわ」新四郎は立ち上がりみわ姫を両手でしっかりと抱きしめささやいた「私も夜眠る時、貴女の白い肌と甘い香りが蘇りいつも貴女が
そばにいたらどんなにか幸せであろうかと思う」

「貴女のことは今日、一緒に来ている児玉五郎左衛門利久には話してある。また、母にも将来、貴女を娶りたいとそれとなく話してある。」

 いまこうしているとずっとこのままで居たいと思う。時が止まってくれと思う。しかし、大きな戦がもうまもなく始まろうとしている。命長らえることが出来るかどうかも定かでない。私が生き長らえたらその時は貴女を妻とする。」二人はじっと見詰め合い、熱い口付けで互いを確かめあった。

 この夜二人は何時までも何時までも愛を語り合い、新四郎が客間で児玉五郎左衛門利久と一つ部屋で休むまで一緒に寄り添っていた。

 西牧城も和美峠を登りきった、山の上に位置し、天然の谷を空掘りとして本丸、二の丸を備え松井田城を一回り小さくした規模であったがこれまでは佐久街道からの小笠原勢、真田勢をよく防いでいた。

翌日朝早く西牧城を出立した新四郎と児玉五郎左衛門利久は来るべき豊臣秀吉軍との決戦に備え、情報連絡の通路、戦略上の要衝、応援部隊の最短で派遣出来る道筋等を確認しながら松井田城へと向かった。

城に帰った二人は西牧城、城将、多米長定の不退転の決意、徹底抗戦の方針を父大道寺駿河守政繁に報告した。

 松井田城もまた沸き立つ様な喧騒の中にあって、ろう城に備えての食料の
備蓄、城の補強、空彫りの強化等に来るべき決戦に備え着々と準備を進めていた。緊迫した情勢の中2ヶ月が過ぎ正月を迎えていた。
 父と母それに今年2歳になったばかりの弟、長松丸との久ぶりの団欒のひと時を過ごしていた。

平和がこのままずっと続いてくれればと新四郎は思った。しかし情勢は決戦の様相を深めていった。徳川家康も最近では完全に見放し豊臣方への臣従を全く薦めなくなっていた。

 東北の雄、伊達政宗にも共に戦うことを働きかけているが去就は全く掴めていない。関東の名門北条5代は氏直の時代になり天下を向こうに回しての戦いに突入しようとしていた。

 情勢は刻々と激突への道を突き進んでいた。加賀の前田利家父子、越後の上杉景勝、それに従来対峙して来た小笠原衆、真田昌幸、雪村父子が北国口から攻め上って来るであろうとの風聞がもたらされていた。

 氏直、氏政父子には秀吉から最後の言い訳言上を要請されていた。しかし家老、松田憲秀等篭城派を信頼している現状では全く聞く耳を持たなかった。20年前関東管領、上杉謙信の軍10万に城が包囲されながら城内に全く攻め込ませなかった過去の実績が今も大きく支配していた。

 当時は上杉謙信は武田信玄と度重なる川中島での戦いに常に用心しなければならず、また冬の降雪にさいして三国峠を本国へと帰らなければならない事情をかかえていたがこの度は天下制覇のためにじっくりと腰をすえて来ている。

 容易ならざる戦いがひたひたと押し寄せている。昨秋、秀吉に城主氏直の代わりにいい訳言上に出向いた北条氏規と親しくしている大道寺駿河守も氏規からの秀吉政権の内情、軍事の力を聞いておりこのままでは北条5代も瓦解するであろうと思った。

しかし3代、氏康から目をかけられ北条政権の中にあって屈指の武将に育てあげられた恩顧を思うとき、滅亡するかも知れない今こそ自らの命と一族郎党の命を北条家の為に捧げなければならないと心に硬く誓っていた。

新四郎もまた父と同じ決意であった。今年の正月は緊張の中にもつかの間の安らか
な家族水入らずの団欒の一時を過ごしていた。年のはなれた弟、長松丸は無邪気に母のひざの上で遊んでいる。
母「おきし」の方も迫り来る合戦のことなど微塵も感じさせない落ち着きと明るさをかもし出している。

 母の思いやりもあり、西牧城のみわ姫も新年の挨拶を兼ねてまもなくここ松井田城に来ることになっていた。
 昼近くみわ姫は晴れ着に身を包み籠に乗ってやって来た。仙が滝以来日増しに緊迫度を加える情勢の中では二人して馬の遠乗りもままならず、この様に会えることが、ほとばしる情熱を伝えあう貴重な時間であった。

 淡い桜と薄紫の着物に正月用に結い上げた髪にさした鼈甲のかんざしが、みわ姫を一段と美しく若く健康な美しさをかもし出していた。
新年の挨拶の後、母「おきしの方」は2歳になったばかりの長松丸を抱きみわ姫に長松丸を渡し微笑んで言った。
 今日は存分に遊んでいらっしゃい。貴女のお部屋も用意しましたの、今日は泊まって下さいね。
御父上には私からお伝えしておきます。」お互いに引かれ合う二人を添えさせてやりたいと思う母の思いやりであった。
女の身にも夫から聞く天下の情勢に容易ならない事態が迫り来ることをひしひしと感じていた。
 戦いの推移によっては二人の恋ははかなく散ってしまうかもしれない。凛々しく育った、息子と美しく礼儀作法も申し分なく身に付けたみわ姫を添わせてやりたいと思う様になっていた。

 夕食の団欒の後、新四郎とみわ姫は本丸の最上階から眼前に迫る妙義山と麓を流れる碓井川を見下ろしていた。碓氷川からは200m程度の高さにある本丸からの景色は城下を一望できた。
 二人はしっかりと手を握り合い、お互いの瞳の中に相手の全てを感じとりつかの間の幸せの中にいた。

 昨年10月末みわ姫と会ってより久しぶりの再会であった。食料の備蓄城の補強と通信手段の確保、軍馬の進むいく通りもの道路の整備と毎日が喧騒の中にあり張り詰めた気持ちの中では姫のことは頭の片隅に追いやり来るべき決戦の駆け引き、軍の進退で新四郎の頭の中は一杯であり1日が矢の様に過ぎて行った。

 はからずも母の計らいで久ぶりで会うみわ姫は瞳が湖の様に深く自分の全てが吸い込まれそうな若い一途な情熱を宿していた。
「新四郎様、私出来れば貴方の側にずっといたいわ。貴方と共に戦い、武運つたなく敗れてもご一緒できれば少しも怖くありません。」手を握りしなだれかかって来るみわ姫の甘い体臭と香りが新四郎を包んでいた。

「私も貴女といると心の安らぎを覚える、出来れば何時までも何時までも一緒に居たい。しかし私は目前に迫った戦いに父を助けて戦わなければならない。
敵は大軍と言えども地の利を生かし戦えば勝機が生まれるものと思う。戦いが終わり、生き永らえたら貴女を私の妻に迎えたい」新四郎様はみわ姫を腕の中にしっかりと抱き唇がはれてしまいそうになる位い口付けを交わしていた。

 若い二人にはこうしている時間が限りなく幸せであり、永遠このままの状態に止まっていてくれたらと思った。
 新四郎は碓水川の向こうに迫る妙義山を見ながら言った。私は何時もこの場所にくると山の裏側の西牧城にいる貴女を思い浮かべている。
しかし、一方では今みている景色が人馬でうずめ尽くされる敵をどの様に翻弄するかも考えています。

 若い新四郎はみわ姫に対するひたむきな愛と恐れを知らぬ不敵な戦いへの闘志を合わせもっていた。

 翌日みわ姫は籠にのり帰って行った。「戦いが済むまでは私も父を助けて西牧城に篭城します。新四郎様も必ず生きていてくださいね。」ほほに流れ落ちる涙とともに城門から出て行った。

 正月20日、小田原城では決戦に際しての最後の軍義が開かれた。当主氏直の伯父に当たる北条氏邦、氏照は北条家の中で5指に入る勇将であり合戦の駆け引きに長じていた。二人は富士川で長征で疲労している秀吉軍を迎え打てば勝機は十分に有ると主張した。当主氏直も同意しかけた。

 そこに氏直の信任厚い家老の松田憲秀が篭城策を強く主張した。上杉謙信、武田信玄が攻めあぐねた小田原城は必ずや今回に戦いにも持ち応えると氏直に
訴えた。日ごろから武闘派の氏邦と安全第一を考える典秀とはなにかにつけて対立していた。

 ここに一旦は野戦に同意しかけた氏直は自分自身の安全から篭城と決した。また五十三ある全ての枝城も各々篭城して秀吉軍に対抗することとした。
古来篭城で兵の機動力を欠いた戦いに勝ち戦は無かった。ましてや一国全てが篭城し兵の進退が局地的な戦いに勝機の訪れるはずも無かった。
ここに北条5代90年続いた名門北条家の滅亡への戦いが始まろうとしていた。

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戦いの時
大道寺駿河守政繁は秀吉軍の北国方面軍が大軍で押し寄せることを掴んでいた。当時、信濃や越後方面から関東に入るには峻険な上信越の山岳地帯を越えなければならず大軍での移動は困難を極めた。

 関東への進出は越後より三国峠を越えて入るルート、信州より碓氷峠を越えるルート、同じく信州より和美峠を越えて佐久街道から入る三つのルートが有ったが大軍で移動する今回の戦いでは古くから街道が整備された和美峠からの侵攻が最も有力であろうと推測していた。

 従って佐久街道の要衝にある西牧城が最初の攻撃に晒されると思われるので松井田城から援軍を移動できるルートを最重要課題としていた。
西牧城が落ちれば規模の小さい国峰城(甘楽町)、宮崎城(富岡)は一気に抜かれ北関東の堅城 松井田城に敵が殺到する。
 2月初め戦いは始まっておらず不気味な静けさの中にあった。しかし秀吉方の甲賀や伊賀の忍びが上信越一帯の山岳地帯に出没し松井田城では細作との間で小競り合いが生じていた。旧暦三月初め、山々の雪は消え新緑が芽生えつつあった。

 新四郎の馬周り役、早川六左衛門は配下に細作を従え常に最新の情報を掴むべく活動していた。自身もまた松井田城から上信越国境地帯の地理に長じ特に太古のまま人を近づけない山岳地帯の間道、獣道を自分の庭の様に心得ていた。

 今までの数々の真田昌幸、幸村父子との戦いにおいて常に馬周り役として従い的確な情報判断により何度も新四郎の危機を救った。

 戦いの機運など全く無かった数年前春4月新四郎は六左衛門に連れられて8時間かけて深山に分け入り松井田から土塩を通り碓氷川の源流、鼻曲山に至り浅間山の麓信州に踏破した時迷うことなく疎間道や獣道を先導して
くれた。
 山はうぐいすやカッコウが鳴き霧が流れる山の頂上に何度も出た。深山に咲く赤いドウダンツツジや紫色の岩つつじが美しかったことが今も記憶に残っている。

 剣も戦場で威力を発揮する真庭念流の免許皆伝の腕前であり30歳を過ぎた円熟した体躯と強い精神力の精悍な武士であった。

 鉄砲大将木部官兵衛は6匁筒300丁を3段4段に分け追撃する敵に集中砲火を浴びせ敵の城への突入を防ぐ訓練に明け暮れていた。
また過去西牧城への援軍として新四郎と共に行動し100丁の6匁筒を持って参加し長柄隊及び鉄砲隊を指揮して敵の主力を突き崩す働きを西牧城の援軍派遣で度々行っていた。

 大道寺駿河守政繁の松井田城にあって新四郎を中心とする突撃隊は早川六左衛門、木部官兵衛、参謀役児玉五郎左衛門利久等が変幻する戦いの中で新四郎の采配が瞬時に徹底される様訓練していた。

また拠点とする城は幅1000m,奥行き600mの山の峰全体に本丸二の丸東西南北の廓群が築かれていたが未曾有の大軍の襲来に備えて防備体制の工事が昼夜分かたず進められていた。

 まず堀切りが何箇所も追加された。堀切りは舌状に伸びる尾根や峰続きを断ち切る目的で鉈で切った様に掘り切った空掘りであり断面はV字型であり深さは20mにも達していた。

 また堅堀もより深く進められていた。堅堀は敵が斜面をよじ登って攻め込んで来るのを防ぐ為、郭の前方の斜面や尾根の斜面に設けられた上下方向の空堀でありよじ登って来る敵に上から石や材木を落として防いだ。これも断面はV字型であり深さは20mにも達していた。

 また堀切りや堅堀をよじ登って来た敵に対していたる所に土居が築かれた。
土を盛り上げて築いた土手で垂直方向に10mの高さがあり敵の矢弾を防ぐと共に敵への攻撃台にもなった。

 城にこもる3000人の将兵は兵農分離が完全には進んでいなかった当時は平和な時は畑や田んぼを耕していたので城の修復工事へも率先して参加した。

 城の修築、戦いの訓練に明け暮れる日々の中で何時しか2月の下旬になっていた。士気はすこぶる盛んであり駿河守を中心として硬い信頼関係で結ばれていたので内部離反を工作する戦術は通用しなかった。
この頃、秀吉の北方方面軍の陣容が明らかになりつつあった。

 上杉景勝25000人、前田利家父子25000人、真田昌幸父子3000人小笠原衆2000人の軍勢が松井田城を目指して進みつつある情報がもたらされた。
対する味方は松井田城3000人、西牧城1000人、近くの友軍の城は国峰城(甘楽町)300人、宮崎城(富岡)300人、また距離的には離れているが、箕輪城2000人、厩橋城(前橋)1000人、沼田城2000人である。

 松井田城の友軍として期待出来るのは西牧城、国峰城、宮崎城である。距離的に1番近い城は宮崎城であった。しかし軍勢の規模が違いすぎる今回
の戦いでは砦に近い城に篭城して1日も長く持ちこたえるのが精一杯で城の外に軍を展開することは不可能と思われた。

 天正18年3月2日、秀吉の北方方面軍は佐久から和美峠を上って、また碓氷
峠から山道を通って真田昌幸父子、小笠原衆の先導で山々が真っ黒になる様な
大軍で進軍し西牧城を無視し突如松井田城を十重二十重に包囲してしまった。特に碓氷峠からのルートは峻険な山道続きであったが五万七千の大軍を

 一気に移動するには二方面から松井田城を目指して移動する必要があった。
北方方面軍は碓氷川を渡って本丸の大手門側横川村に前田利家父子25000人が陣を構築し二の丸搦め手側松井田村に上杉景勝20000人が布陣した。

 隅矢倉のある本丸の裏手新井村、土塩村には真田幸村父子、小笠原衆、依田、山之内、塩川など7000人が北狭間高梨子村には上杉景勝の別働隊甘粕備後守清長の5000人がそれぞれ布陣した。当初の情報より2000人増えていた。

 皆、戦国の激戦を勝ち抜いて来た兵であり将であった。特に上杉軍は軍神
上杉謙信と生死の境の戦いをくぐり生き残った歴戦の勇士を多数擁していた。
本陣には謙信に薫陶を受けて名参謀として名を轟かしている直江山城の守
も景勝と共にあった。

 上杉の武将甘粕備後守清長は着陣早々九十九川から汲み上げている松井田城の水の手を遮断した。山城である松井田城は水の手を遮断されればいくら兵が勇敢であっても1週間程度で降伏するであろうと思われた。

 山城は正攻法で攻めた時巨大な要塞と化しているので大軍で攻めても多大の犠牲を払わなければならない。水を断つことは山城を落とす常道であった。一気火勢に攻められ水の手を守っている兵は成す術もなく九十九川からの水は遮断された。

 新四郎と駿河守は本丸最上階から眼下を見下ろしていた。主要な道路、平坦部には秀吉の北方方面軍で埋め尽くされていた。旗指物がはためき壮大な威圧感を城側に与えている。水の手を絶たれて3日が過ぎていた。城近く押し寄せた兵は攻め入ろうとするが巨大な堀切りや連続堅堀に阻まれ、打ち出す鉄砲や矢で城域に近づけないでいた。

 攻め手側はそろそろ水の枯渇が功を奏する頃と期待したが一向に士気は衰えを見せなかった。松井田城はこの様な場合を想定して寄せ手に気付かれていない水の補給を千が滝より山中を経由して竹筒を地中に埋め込んで行われていた。

 従って城方の士気は少しも衰えを見せなかった。
城の将兵3000人は歴戦の勇将駿河守を信じ五万七千の大軍に脅えることなく堂々と対峙していた。

 しかし父駿河守は新四郎に心の内を打ち明けた。「もはやこの様な大軍では勝つことなど到底適うまい。しかし関東武士の気骨を示し主家の滅亡に花を添えたい。将来あるお前を道ずれにすることは忍びない。しかし北条5代の厚恩を思う時わしと一緒に戦ってくれ」50歳を過ぎた父の顔に強靭な意志と子供を思う親心の一抹の寂しさが読み取れた。

 新四郎ははっきりと答えた。「私は父上及び主家のために喜んで戦います。存分に戦える指示をして下さい」

 新四郎は城下を十重二十重に囲んだ敵を見ながら十八歳の若さゆえか恐ろしさよりも日ごろの訓練で軍を指揮して歴戦の強敵を少しでも突き崩し関東武士の意地と勇気を示したいと闘志が湧き上がっていた。また一方ではもう一度「みわ姫」に会って脅える姫を庇って遣りたいと思っていた。

 程なく本丸大書院に主だった将兵が集められ駿河守政繁より命令が下された。3月5日4ツ半(午前11時)頃であった。
「現在都合5万7000の軍勢がこの城を包囲している、対する我が軍勢は3000である。城を堅固にして上方勢の来襲に備え待つこと3日、我今この城に兵を引き付けて安閑とまつことでは関東武士の気骨を敵に示せない。

 出陣してひと当てして、見方の勢いを見せ、敵の強弱をさぐる。もし歯が立ちそうも無い時は城に引き上げ堅固に防戦する。まず一戦する。「出陣する軍勢は2000とする。」

 城を出て敵の真っ只中に身を晒し戦う命令が下った。
大将に新四郎政次、つき従う武将は児玉五郎左衛門、山住戸右衛門、鈴木新左衛門、三保崎九良右衛門、早川六左衛門、木部官兵衛が選ばれた。
城の馬揃えから見下ろす敵は平坦部の戦略上の地域にびっしりと布陣し出て行くことは全滅も覚悟しなければならない様に思われた。

 新四郎は馬揃えで主だった将兵に訓示した。「敵は大軍で我が城を包囲している。未だ本格的な総攻撃は躊躇している、敵の陣形を見るに所々緩みが見える。
今から関東武士の気骨を示し敵を撹乱する。敵の首を取ることは二の次にせよ。2千の将兵が一丸となって錐の刃となって敵の陣形を崩す。皆のもの奮闘を祈る。」期せずして「えいえいおう」と掛け声が山上にこだました。

 大道寺勢は上杉景勝勢の側面坂本、東横川に騎馬武者、長柄隊、鉄砲隊を繰り出した。これを見て敵の先方衆、真田与三郎幸村、依田、小笠原衆が前面に進軍して来た。

 小笠原衆、依田衆、真田の先陣が松井田勢の先頭に襲いかかった。真田の先陣には伊勢崎藤右衛門、持継宇左衛門、穴山小左衛門、大塚清左衛門、海野四朗兵衛等錚々たる将兵がいた。

 大道寺家臣山住戸右衛門、松井田勢先頭集団の騎馬武者を指揮して真田幸村の先手伊勢崎藤右衛門の軍勢に4尺5寸余りの大刀を振りかざし密集隊形で切りこんだ。
伊勢崎勢散々に打ち切りたてられ散りじりとなり成り敗走した。山住戸右衛門ここぞとばかり敵陣に突進した。

 新四郎これを見て「見方の勝利」と旗本勢を押し出し敵の第二陣依田衆に打ち掛かる。付き従う児玉、鈴木、三保埼等一騎当千の豪傑であり依田の陣も大いに乱れる。

 ここぞとばかり騎馬隊、長柄隊を交互に敵に当たらせる車掛かりの戦法で敵陣深く突進した。

 これを見て上杉景勝の精兵藤田能登守信吉、安田上総助利兼が敗走して来た依田衆の前面に押し出し激戦となる。自在に動けなくなった時大軍相手では包囲殲滅されることが目に見えており新四郎は城への引き上げを全軍に指示した。

 この日の出で立ちは黒を基調とした鎧に兜をかぶり栗毛の馬に黒塗りの鞍をおいて打ちのり、9尺余りの筋金入った槍をかい込み旗本勢と共に進退し退き口を遮断しようとする敵に当たり阿修羅王の如く向かう者を突き落とし、敵100騎を討ち取り囲みを破って敵陣深く突貫した味方を旗本本陣に帰陣させた。

 新四郎の馬周り役も同じ黒を基調とした鎧と兜をかぶり敵の鉄砲の狙撃から
大将が狙われない用心をした。
2000の将兵は城から4キロ程の敵中に坂本の山並みを背に平野部に退路を確保しつつ展開していた。

 この時真田幸村、先陣の伊勢崎藤右衛門が崩されたのを目にして諸軍に下知した。「敵をこのまま城に戻しては何の面目が立とうか、者共続けや」と紫の白壇磨きの鎧にしたたれ烏帽子の兜をかぶり逞しき栗毛の馬に打ちまたがり十文字の槍を引っさげ小笠原衆の脇備えより真一文字に大道寺の本陣目がけて突っ込んで来た。

 付き従う面々には穴山小助、野目右衛門、掃部若狭守等であった。一陣のっ突風となり新四郎のいる本陣めがけて突進してきた。たちまち味方の先頭が突き崩された。新四郎これを見て進んで真田と槍を合わせた。

 丁々発止と戦いその勢い一人は虎の風を起こし一人は竜の波にあるが如しであった。いずれが勝つか全く分からなかったが新四郎真田の槍を受け損じ肩先を鎧の上から付きかけられ馬より下へどっと落ちた。

 すかさず槍にて突きはねるところを寝ながら鎧の袖にて受け止め槍の塩首しっかりと握りそれを頼りに立ち上がり、幸村を馬上より引き落とさんと力任せに引いた。幸村槍をゆるめて大刀を抜き片手うちに真っ向うみじんにうち下した。

 新四郎心得たりと真田が手放した槍で受け止めた。すかさず真田の馬の足を槍でなぎ払った。馬はしきりに跳び上がり真田は馬より落ちたかに見えたがひらりと丘の上に立った。

 咄嗟の出来事であり指揮官同士の戦いになってしまったが両軍の馬周りの武将が「主人を打たすなも者共」と両方分け入った。

 この時山住戸右衛門4尺5寸余りの大刀を打ち振り幸村の前面に押し出し「この者我に給うべし」と大音声で叫び幸村に突進する。
戸右衛門が幸村勢を食い止めている間馬周り役に強引に介添えされて新四郎は退いた。新四郎は幸村の槍に肩先を負傷したが戦いの場から1丁ほど退き、新しい馬に乗り換えいつでも再突撃する体勢にあった。

 幸村これを見て一挙に崩そうと突撃する矢先に戸右衛門が立ち塞がったので幸村「我が一念をかけし敵なにやつなるや、妨げするな」と馬周り衆と共に十文字の槍に大刀を携え戸右衛門及び部下数名に立ち向かう。

 戸右衛門は新四郎に近づけまいと四半時(30分)奮戦したが名誉挽回に必死で攻めかかる幸村勢に負傷しあえなく首を挙げられてしまった。
幸村の馬周り役野目右衛門大音声に「関東にて大力の聞こえありし山住戸右衛門を我が主人真田与三郎幸村生年18歳にて討ち取ったり」と呼ばわった。

 これを見て新四郎は味方の軍勢を最小限の犠牲にて引き上げるのは今だと引き上げの命令を出した。

 この時幸村勢の背後にいた越後勢藤田能登守、安田上総之助らが信州3組衆に加わり追い討ちをかける。新四郎は児玉五郎左衛門、鈴木新左衛門、三保崎九良右衛をしんがりとして早川六左衛門、木部官兵衛は退路を確保をすべく後ろに回りこもうとする敵の側面を突きき崩す部隊として配置し繰り引きの戦法で指揮系統を確保しつつ追い討ちをかける敵を時には攻め、ひるんだ隙に後退し城への帰還を始めた。

 午後3時頃から始まった戦いは早二時間が過ぎ3月初めの7ツ半(午後5時)は曇り空のもとでは薄暗くなりつつあった。城への退路の山並みは新緑にちらほらと彩られつつあった。

 越後勢の猛攻をかわしつつ粛々と引き上げる大道寺勢は長柄隊、騎馬隊、鉄砲隊を上杉勢の先方に配し兵は一つの生き物の様に進退し後方に敵が回りこむ事を阻止していた。戦国の激戦を勝ち抜き日本屈指の上杉軍団も攻めあぐねていた。

 地の利を確保している敵を長追いし敵をこれ以上深追いすることは兵の損耗を大きくするばかりと信州3組衆が陣場を越後勢に渡し、坂本村に引きあげた。

 この時少し小高き丘の上に陣取った越後勢の本陣に影勝公、直江山城守が入っていたが見事に進退している大道寺勢をこれ以上追っても味方の損耗が増すばかりと判断し攻撃の中止を命令した。

 新四郎は山住戸右衛門以下30名ほどの討ち死にをだしたが午後6時全軍を城へ帰還させた。これに対して真田勢、上杉勢の討ち死に数百名であり初戦は勝ち戦と言えた。

 しかし戸右衛門を失ったことは新四郎に大きな悲しみを与えていた。日ごろの宿敵幸村に突進された時一軍の指揮官であることを忘れ雌雄を決すべく
幕僚と共に自らが先頭に立ち突進したことは若さ故の過ちであると肩の傷の痛みと共に心を締め付けていた。しかし父駿河守は軍の進退見事であったとねぎらってくれた。

 食事を済ませしばらく休息した後、4ツ(午後10時)本丸の最上階から見下ろす城下の風景は曇り空のもと、びっしりと秀吉軍のかがり火で埋めつくされていた。 碓氷川から安中方面の平野部、郷原村、城の西側、五料村から横川村と5万数千の将兵によりびっしりと埋めつくされ無数のかがり火がゆらいでいた。

 戦いが始まってから4日間、夜も交代で鉄砲隊を主力とした見張りが続けられた。食料は節約すれば1年分は蓄えられ、水は仙が滝から引かれたもので不自由はしていなかった。 兵の士気はすこぶる高く、敵は攻めあぐねていた。

 星空の様な敵のかがり火を見下ろしながら新四郎は暗く沈む妙義山の裏側西牧城のみわ姫のことを思った。戦いの後の疲れがなお更「みわ姫」の息吹と深い瞳、輝く様な白い肌を思い出させていた。 

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攻防
 松井田城をめぐる攻防で初戦の野外戦では大道寺勢は互角の戦いをした。北国勢の主力が松井田城に向かっている現在、みわ姫のいる西牧城は今現在は安泰であると知らせは入っているがいつ反転して攻め落とされるかもしれない、どうか何時までも無事であって欲しいと大道寺新四郎は念じた。

 西牧城の城将、多米長定は城を無視されて大軍が松井田城包囲へと向かったのを知りながら、わずか総勢1000名の将兵では背後をかく乱することも出来ず敵が多くの将兵に守られて通る荷駄隊を襲うこと位しか出来ずにいた。

 翌日も北国勢は松井田城を十重二十重に取り囲んだ。西牧城、国峰城(甘楽町)、宮崎城(富岡)への部隊の移動手段は松井田城及び西牧城とも遮断され、これらの城へ北国勢は部隊を侵攻させつつあった。

 秀吉本軍もまた小田原への侵攻を真近に控え秀吉の命令を待っていた。北国
勢の将、前田利家、上杉景勝も出来るだけ早く北関東を制圧し小田原の総攻撃に加わり秀吉のいる前で手柄を立てたかった。

 北国勢の総大将の前田利家は現状を次のように分析し友軍の武将に図った。「猛攻に次ぐ猛攻で松井田城を攻め落とすことが出来ない現在、敵の勇気益々盛んにして士気の衰える気配は微塵も感じられない。

 北関東は北条の軍事の重要拠点であり、このままでは兵糧輸送もままならない。大道寺に利害を説いて降参いたさせ城を受け取りここを根城にして兵糧の通行を確保し散在する主要な城を虎巻きにすれば関東を切り従えることは容易と思う。

 この件如何に」居合わせた諸大将一同して「しからば大道寺へ申し入れるべし」として上杉より甘粕備後守、前田より長九郎左衛門、天下に隠れも無き剛勇の将が使者として選ばれた。

 両士馬にまたがり鉄砲の射程距離に入り大手門に至り「案内を請い申すべき儀候えば開門あれ」と大声で申しいれた。 これを聞いた駿河守は、兵に命じて大手の門を開き城内へ通し使者の間へ案内した。幕僚の三保崎九郎兵衛、両士の趣を承り駿河守に用件をつたえる。


 大道寺駿河守早速対面致すと大広間に座す。駿河守左に新四郎、右に児玉五朗左衛門、鈴木新左衛門、三保埼九郎兵、その他松井田城の諸将一同が居並んだ。

 駿河守、両士に向かい「前田、上杉の御使者ご苦労」と挨拶する。長九郎左衛門、奉書を取り出して三保崎に渡す。三保崎押し開き声を上げて一同に読み上げた。
「今般、関白秀吉公北条左京太夫の暴悪を憎んで御発番につき諸国の大名従うなり。しかるところに駿河守関要なる北条の幕下にこれあり。早く太閤に従わば所領十八万石安堵なるべしなり。

 大道寺駿河守殿    関白秀吉名代 上杉宰相景勝                               前田宰相利家   」

 この時駿河守、大口あいてからからと打ち笑い「軍慮を知らざる侍に返答致すに及ばず。さりながら降参いたすほどならば、足元近く押し寄せる先に降参いたすべし。もとより討ち死にと定めたるところなれば、早速攻め寄せたまえ。

 松井田城中の侍には骨もあり、腕もあり。大軍を頼りに致す権威の自慢はご無用。たとえ百万騎をもって攻めるとも大軍には怖れず。城を開き降参いたすような侍、関東には一人もなし。上方の家風とは相違いたすところなり」と両使をにらんで座を立てば、両使おおいに怒り「その返答舌長なり。さらば一時に攻め破りて進上申す」と言い捨て両使城外に出て両宰相にありのままを報告した。宰相殿怒り散々に打ち破ろうと手配りを定めた。

 しかし松井田城は要塞堅固であった。戦いの前は南は妙義山中の嶽に続き、碓氷川を控え西は羽根石嶽、北は土塩村の仙が滝までが城の防衛拠点であったが今は山上の城を残して全て北国勢の勢力圏であった。碓氷川は、時あたかも3月の上旬であり、山々の雪溶け水が川一面に満水していた。

 松井田城の東は宮崎城(富岡)に300人が未だ健在であり、松井田城からの指示で狼煙を上げて合図し背後を撹乱する手はずを整えていた。

 明けて3月8日巳の刻、北国勢の城攻めの旗差しものは山おろしに吹きなびき時の声は天地に鳴り響いた。

 攻め立てる景勝公は八代村を山越えして碓氷川を渡る宮崎勢を討とうと、郷原から松井田城麓近くに陣をしいていた。加賀利家公は搦め手を攻めるべく五料村に陣を置き先手を繰り出した。信州3組の勢は北の谷を塞ぎ狭間の間道をわざと開き天神林に伏兵を置き、大道寺の後詰めを討ち取り、また城中より落人があれば生け捕ろうと手配りした。

 こうした時、秀吉公小田原へ着陣し「上州松井田城速やかに落とすべし」と指令が届いた。北国勢の士気大いに上がり城への攻撃が熾烈をきわめた。

 近くの脇城、宮崎城より甘楽衆、安中衆が碓氷川の後方へ押し出し霍乱を図ったが上杉勢に攻め立てられ碓氷川を渡り城へ近づくことは出来なかった。同時に松井田城への総攻めが決行された。

 この時、大道寺駿河守戦いを受けて兵士を要所に配置し、馬回り衆、四方にはせ周り下知をなし弓鉄砲を間断なく打ち出す。また防塁に取り付いた敵に大石、大木を投げ落とし妨げ、北国軍の手負い討ち死に数知れず、さしもの大軍も攻めあぐねていた。

 鉄砲大将、源藤内蔵、木部官兵衛、矢野七郎左衛門らが自在に操る600丁の鉄砲もまた大きな威力を発揮し敵を城内に侵入させなかった。
四つ(午前10時)に始まった総攻撃はいつしか七つ(午後4時)になり北国勢は各陣場へと引き上げていった。わずか三千の兵で五万数千の敵と互角に渉りあった激しい戦いであった。

 まる一日続いた戦いで敵味方とも疲れていた。しかし敵の虚を突くのが兵法、七つ半(午後5時)新四郎矢倉に上がり、寄せての様子を見て城内の諸勢に向かって下知した。「寄せ手はなはだ油断の体なり、今宵四つ(午後10時)夜討ちを決行する」夕方から降り始めた小雨に夜の寒気が肌にしみていた。

 北国勢は激しい戦闘に明け暮れた疲れを癒していた。松井田勢は何倍にも疲れているであろうと思われたが新四郎の命令に闘志が湧き上がっていた。
付き従う面々は山住八良、猪俣五郎、村上七左衛門、利根川亀之助、江戸崎六良右衛門、塩川徳造、鎌渕作乃丞、森市兵衛、春日井四郎等一騎当千の兵300余人にて決行と決した。

 馬揃えの場所は本丸から20メートル低い二の丸の脇にあり出陣する面々が打ちそろった。ここから城を囲む敵が一望の下に見渡せた。敵陣は赤々とかがり火を焚き静かさの中に城への威圧感を与えていた。

 城は本丸、二の丸が深さ30メートル角度60度のV字型に切られた空掘りで遮断され一方が敵に攻められ落ちてももう一方で敵と戦うことが出来る構造となっている。
 また東郭群、西郭群、南郭群、北郭群の間も堀切で遮断され各郭群も個別に指揮官が束ね敵と戦える構造になっている。山全体が要塞化して10倍の敵とも戦える。
しかし敵が攻めにくい構造は味方も大軍を一挙に移動させるには障害がある。

 この頃上方(関東以西)では平地に石垣、掘割を築く築城法へと変わってきていた。しかし北条では小田原城を除いて山城であった。

 水や食料が十分に確保され味方の結束が固ければ防戦に徹すれば山城は被害を少なく出来、かなり長い間戦うことが出来た。しかし城を出た途端、数の多さが戦いを有利に導く野戦では互角に戦えるものでは無かった。しかしそれを承知で今、夜討ちを決行しようとしていた。

 新四郎は馬揃えに集まった面々を前に「今から未曾有の大軍の中に討ち入る。人馬の気配を消して四半時後に搦め手から一挙に敵陣に突入する。松井田勢の気骨を示す戦いを望む」と訓示した。

 上杉景勝の先陣藤田の陣へ夜の暗闇の中、地形を熟知している新四郎勢は敵に気付かれることなく敵陣近く進み50丁の鉄砲をつるべがけに打ち込んだ。
不意をつかれ上へ下への騒動となり応戦どころではなかった。大道寺の一騎当千の兵は陣所になだれ込み、火を放った。あわてふためいた藤田の陣はろくろく戦わず崩れてしまった。

 後方に控えた、安田,与田、小笠原の陣は「すわ夜討ちぞ」とあわてて太刀よ兜よと騒動していた。ここに新四郎を指揮官とする300の軍勢が大刀や9尺余りの槍をもって突入し当たるを幸いなぎ倒した。安田,与田、小笠原の陣、手負い討ち死に数知れずの状態で更に後方の味方の陣へ敗走した。

 敗走する兵を追って新四郎は敵陣深く突入した。しかし前面の敵は静まりかえっていた。この時、新四郎勢は真田の陣の前面に突進していた。
物見の報告から真田隊は鉄砲に火縄を挟み数百丁の弓を引き絞り、後方には数百の長柄隊が静かに戦機の熟するのを待っていた。

 新四郎、真田の陣の油断無き様子を見て「さてさて真田天晴れの大将なり」と感心し「軍はこれまでなり」と反転城中へ引き上げの命を下した。

 この時の夜襲で真田勢がいなければ北国勢いくら討たれたか数しれなかった。この夜襲で上杉の討ち死に3百余人、手負い50人、加賀の討ち死に八十余人、その他の陣でも討ち死に、手負い数知れず出した。大道寺勢は十数倍の敵と戦い互角にわたりあっていた。戦いは一進一退であり大軍で攻めても松井田城は未だ健在であった。

 翌日正午景勝公の陣所で今後の方針について主だった武将が出席し評議した。
この席上、幸村進み出て意見具申した。「一時怒りにて一時攻めを決行すればいよいよ敵をふるいたたせる。また現在の状態にて総攻撃を掛ければ大道寺ほどの勇者でも攻め落とすことは可能であろう。しかし味方の討ち死に手負い数多く甚大な被害をこうむると思われる。

 この度は無念を抑えて向かいに城を築き備えを厳重にして沼田、前橋、箕輪
の主要な城を攻め落とせば松井田城は刃物に血塗らずして手に入れることが可能と思う」と述べた。 両大将はじめ皆々この議に一致して定まった。

 これより北国勢は沼田、前橋、箕輪の三城へ押し寄せる。沼田城主猪俣能登守は大軍が押し寄せるとの情報で戦わずして城を捨てて箕輪の城へ逃げ込んでしまった。

幸村勢が沼田の城に攻め入った時、兵の姿はなく皆逃亡してしまった。城中に入り厳重に守りを固め、軍勢を手分けして加賀宰相利家公、真田安房守一万八千余騎にて箕輪城へ押し寄せる。

 一方上杉宰相景勝公、小笠原等二万余騎にて前橋城へ押し寄せる。箕輪先陣長九郎左衛門は加賀勢の中にあって天下に鳴り響いた剛勇の士であり1番乗りで城中に突進した。城内より城主内藤大和守の剛勇で鳴り響いた郎党長谷川伊織が名乗りをあげ片鎌槍をひねって長九郎左衛門に突いてかかる。

 2打3打戦い勝負がつかず槍を投げ捨て組討になった。組討と同時に九郎左衛門長谷川伊織を宙に差し上げ一振りにて味方の陣へ投げ込んだ。兵士がどっとおしよせ首を切った。これを見て箕輪方惨芯して大和守味方をまとめ本丸へ引き退いた。

 一方真田勢はいぬいの矢倉を引き崩して城に乗り込んだ。穴山小助17歳が一番槍で乗り込む。続いて伊勢崎藤二郎、部分若狭、大塚清左衛門、大将幸村が進む。その他加賀の軍勢堰を切って箕輪城に突進した。

 混乱の城方にあって沼田城を捨てて箕輪城に逃げ込んだ猪俣能登守、槍を持って現われたが隙あらば逃げようと戦っていた。
これを見て真田勢の伊勢崎藤二郎は鎧の草ずりを掴んで馬から引き落とし苦も無く縄をかけてしまった。

 圧倒的優勢な敵軍に対してなすすべも無く箕輪城の大将内藤大和守、はやこれまでと降参する。諸軍城中に入り今日の手柄の面々を記帳する。軍功第一は長九郎左衛門と決し当座の褒美として月鹿毛の馬と鞍を進呈された。真田勢は穴山、伊勢崎等に当座の褒美として太刀を賜った。

 捕らえられた猪俣能登守は沼田城から逃げ、また箕輪城の攻防で武士にあるまじき臆病の振る舞いありと、城下引き回しの上磔つけにされた。
一方前橋城は堅固で寄せ手は攻め倦んでいた。そこで後詰めとして加賀宰相真田親子1万3千余騎にて利根川を渡り実正に陣を取り上杉勢二万余騎に加わった。

 城主、北条丹後守千余騎にて立てこもり上杉、小笠原の大軍で攻め立てたが城を守り臆する様子も見せなかった。
ここに総軍相談して「明日卯の刻(朝6時)総掛かりで攻め寄せる」ことに決した。

 明けて天正一八年三月十四日大手、搦め手同時に三万3千余騎の軍勢が千余騎で守る前橋城をときの声天地に響かせ鉄砲を撃ちかけ攻めた。

 城方も奮戦したが3日間の戦闘で戦いに疲労し今また数十倍の敵に攻められ、落城近しと判断した北条丹後守は16日、降参し城を空け渡した。

 城の防備を固め北国勢は武州松山城へ押し寄せた。松山城主真田閑楽斎は小田原の本陣に立てこもり和田因幡守、山田伊豆守、金古紀伊守、諸星丹波守等が総勢3000余騎にて立てこもっていたが数万の敵を目にしてろくろく戦わずして降参してしまった。
ここに北関東の主だった城は落城し残るは松井田城、西牧城、国峰城、宮崎城
のみとなった。

 思いの他頑強に抵抗する北条勢に恐怖心を起こさせ瓦解を早めるため秀吉は北国勢に対して城に火をかけ女子供も容赦なく討ち取る方針を以後の戦いで指示した。
3月17日軍を返した北国勢はわずかの軍勢で守る国峰城、宮崎城に火をかけ総攻めでわずか1日で落としてしまった。

 3月18日早暁北国勢は西牧城を十重二十重に囲み総攻撃を開始した。城将多米長定は国峰城、宮崎城の苛烈な攻撃を耳にし、最後の戦いになるであろうと思っていた。みわ姫には北国勢が箕輪城、前橋城に転進して手薄になっている時、戦いが終わるまで安全な場所に避難するよう薦めたが「父上と一緒にいます」と聞き入れなかった。

 新四郎様は今度の戦いで死ぬ覚悟でいる。私を見つめる目に限りない優しさをたたえている。そして戦を語る時も同じように戦いを楽しむ様な遠くを見つめ何か崇高なものに向かっている様子を示している。

「お正月最後にお会いしてから今日まで思うは新四郎様のことばかり、あの方のお側で日々暮らすことができたら私はそれだけで何にも要らない。愛しい人新四郎様、あの方は私に最後まで望みを捨てず強く生きて欲しいとおっしゃった。

 私も貴方が生きていれば何処までもついて行きたい」しかし本丸の最上階から見おろす城下の様子は何処にこの様な軍勢が居たのかと思うほど兵で埋め尽くされていた。そして私の命もこの戦いと共に終わるで有ろうと思った。

 上杉勢、真田、小笠原を主力とする三万数千の軍勢がわずか1000の将兵で守る西牧城を日夜攻め立てた。

 昼も夜も聞こえる戦いの雄たけびの声、鉄砲の轟音が途切れることはなかった。2日間の猛攻で城方の兵で戦える人数は500程度になっていた。それでも本丸、二の丸はいまだ落ちずにいた。

 本丸、二の丸と東西南北の郭群とは堀切り、空掘りで遮断され深いV字溝で
容易に敵が近づけない構造は松井田城と同じであるが、城の規模は3分の1程度であり防御出来る人数をはるかに超えた敵により東西南北の郭群は既に敵に占領されていた。

 過去の戦いでは苦しい時、松井田城からの援軍が必ず来たが5万数千の敵がこの狭い山岳地帯一隊に布陣している現在援軍の移動はもはや不可能であった。
猛烈な戦いで明け暮れた2日目の夜、城将多米長定は城にこもる全ての将兵にお酒とご馳走を振舞い労をねぎらった。

 皆良く戦ってくれた。しかし戦える兵は半分になった。本丸、二の丸はかろうじて落ちずにいるが最早時間の問題である。
今まで雲霞の大軍を相手に皆良く戦ってくれた。明日は総攻撃にさらされる。如何に戦おうとも城は落ちる。

 北関東の主要な城を落としてから北国軍の戦ぶりは苛烈を極め皆殺し戦法に出てきている。今宵闇に乗じて落ち延びてくれと頼んだ。しかしほとんどの将兵は最後まで戦うといって城に滞在した。

 3月20日早朝より北国勢の総攻撃が始まった。堀切り、空掘りに巨大な梯子
矢や鉄砲の防御を施した巨大な矢倉を立て鉄砲を撃ちかけた。松明をつけた燃える矢を本丸二の丸に無数に打ち込んできた。

それでも城方は消火したり、攻め入って来る敵と戦い2時(4時間)ほど持ち応えたが最後に残った本丸も火炎に包まれた。
長定は最後が来たことを悟った。側近に笑みをもらし最後まで行動を共にした者に対して、心より礼を言った。

 みわ姫を見つめる目は慈愛に満ちていた。わしは今この場になってもお前が生き、新四郎殿と幸せになって欲しいと思っている。「力足りずに攻め滅ぼされる父を許してくれ」万感の思いで見つめる父の顔に優しさと寂しさが現われていた。迫り来る炎の中、長定は奥の部屋に姿を消していった。

 みわ姫は炎の中、父の後を追おうとしていた。そして新四郎のことを思っていた。「新四郎様、短い生涯でしたが私は貴方の愛を両手一杯に頂き幸せでした。あの世では貴方の側を離れず貴方をお守りします」最愛の人を一心に思う時迫りくる火炎の暑さも感じなくなっていた。

 父の部屋に行き着く前に炎に包まれ進めなく成った時、持っていた短刀で首の血管を切った。遠のく意識の中、得も言われない快感が全身を包み、新四郎の腕で抱え上げられている自分をみていた。

 そしてそっとささやいた。「短い生涯でしたが貴方にお会い出来お慕いし愛された私は幸せでした」やがてみわ姫は炎の中に炎上して行った。

 その日の内に西牧城が落城したことは駿河守のもとに知らされた。新四郎は長定やみわ姫が炎と共に炎上したことを知った。

その夜新四郎は夢を見た。腕の中に両手で抱えられたみわ姫は優しい微笑みと共に、「これからは貴方の側にずっといられる私は幸せです。貴方ともに歩みます。」と、しかし目を覚まして夢で有ったことを覚った。

 明けた3月21日早朝より5万7千の将兵が松井田城を十重二十重に取り囲んだ。しかし大道寺駿河守城を堅固に守り動揺する様子を微塵も見せなかった。
西牧城を攻めている間、北国勢は後方を新四郎の夜討ち、朝駆けによりしばしば撹乱されていた。

 残るは松井田城のみ、しかし士気盛んにして戦さ上手な大道寺勢、このままでは城を落とすのに長い時間が過ぎ、その間に小田原城が落ちてしまったのでは北国勢の面目丸つぶれとなってしまう。そこで諸将評議して死を一挙に決めて一時に乗り破ろうと総攻撃の方針を決定した。

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落城
 天正一八年3月22日八城村の砦を守る守備隊を残して砦を離れた利家公、先陣の大将として長九郎左衛門、山崎長門守3千余騎、二陣は里村伊予守、不破彦兵衛3千余騎、三陣前田又次郎、村井伊豆守3千余騎、後陣遠山佐渡守、篠原出羽守4千余騎、前田出雲守4千余騎、御本陣八千余騎、の陣容を整えた。

 一方上杉宰相景勝公先陣には甘粕備後守、藤田能登守五千余騎、二陣は村上源吾、夏目舎人助4千余騎、三陣は佐藤一甫斉、鬼小島弥三郎三千余騎、中軍松平修理之亮五千余騎、御本陣八千余騎、信濃三組の衆七千余騎、総勢五万七千余騎3月22日兎の刻(午前6時)より総攻めに雷電の如く攻め立てる。

 松井田城もまた懸命に防戦した。東西南北の郭群及び本丸、二の丸が空掘り、堀切り、連続堅堀で遮断され敵が容易に攻め上れない構造になっていた。しかし攻め手もまた死を決しての総攻めであり巨大なはしご、櫓を築き鉄砲の集中砲火と共に攻め立てた。

 しか城中少しも動ぜず、大道寺父子士卒を下知して鉄砲を打ち出すこと雨の如くであり寄せて少しひるむ所を大手門をさっと開き駿河守雲霞の敵陣へ打って出た。この日の出で立ちは紺糸縅の大鎧、同色の5枚綴り頭形の兜、鹿の角の前堅、白羅紗の陣羽織、長光の陣刀を帯び、黒馬に黒鞍置いて打ちまたがり穂先三尺二寸の大身の槍を馬の平首に引き添えて真一文字に乗り出し、上方勢の中にわき目もふらず乗り込んだ。

 敵兵八方より取り巻き押し包んで討とうと襲いかかるが駿河守従う士卒を進ませ敵を左右に付き伏せた。その勢、大山の崩れる如く敵の先手を打ち破り猛威を現し戦った。

 これを見て上杉勢の藤田能登守「憎き敵の振る舞いかな。大道寺とて鬼神にはあらじ。かかれ、かかれ」と新手の勢を横合いから突入させた。陣形が少し緩んだ所へ長九郎左衛門、山崎長門守、里村伊予守、不破彦兵衛、前田又次郎、村井伊豆守、遠山佐渡守、篠原出羽守等一万三千余騎にて包囲し常に新手の勢を繰り出し猛攻した。

 わずか1000の将兵、ほどなく侵攻は阻止され、攻めはこれまでと城への引き上げを命じた。北国勢はこの時とばかり猛攻し城への付け入りを目指したので大道寺勢も中々城に戻ることが出来ず引き上げは遅々としていた。そこへ前田の武将、山崎長門守槍を持って駿河守とお見受け申すと突き出した。

 駿河守振り返って、「長門守推参なり」とはったとにらみ槍を頭上高く振り上げ
長門守の草摺りへ付きかけ、長門守たまらず馬より落ちた。しかし郎党すかさず駆けつけて救い出す。寄せては潮の如く城中へ付け入ろうと攻め入って来るので二の丸目指して退いてはいるが味方が数倍する敵にともすれば退路を塞がれている。敵は城を落とす好機到来と「付け入りせよ」と猛攻につぐ猛攻を重ねた。

 十数倍の敵の攻撃をかわしつつようやく城への通路、二重橋まで退いてきた。
城の鉄砲隊も敵味方入り組んでの状態であり銃撃は出来ずにいた。ここで橋を渡られ城郭群に付け入りされては防備を厳重にしている城は瞬く間に落ちてしまう。

 駿河守二重橋に馬を立て「憎き敵の振る舞いかな」と睨みすえる有様は三国志に出てくる烏江の戦い・項羽の勇を彷彿とさせた。敵味方一同に「天晴れの勇士や」とどっと声が上がった。

 かかる所へ本丸より新四郎三百余騎一筋の鋭い槍の穂先となり鉄砲隊を伴い北国勢の先鋒、長九郎左衛門にまっしぐらに攻めかかり、駿河守を救い出ししんがりしてその身も城中へと引き上げたが北郭群西郭群は乗っ取られてしまった。しかし東郭群、南郭群、二の丸、本丸は今だ健在であった。

 各郭群の間、本丸、二の丸の間は独立した要塞として30メートルを越す切り立った空掘りや連続堅堀で遮断され戦力はまだ十分に保持していた。
北国勢このままでは士気盛んな松井田城を落とすには大軍を持ってしても尚数日間かかってしまう良き智恵はないかと協議した。

 その夜前田又二郎、内山半左衛門を招き「その方この辺りの出生なりと聞き及ぶ。この山城ゆえ水の手の様子を知っているであろう。この水を断ち切って、水攻めにして英気をくじき城を落とすべし」と相談し依頼した。これに対し半左衛門はしばらく思案をめぐらし申し述べた。

「私の甥に相州小田原の産にして藤三郎と申す者、大道寺駿河守入国の節付き従って来ている。この者、確か現在も松井田に在住のはずである。この者ならば知って居るかも知れない。」そこで細作にあらかじめ藤三郎
の在り処を探らせ、夜に藤三郎方へ参り情報を聞き出した。

 藤三郎「城内の様子は全く知りません、しかし水の手は仙が滝と申す所より城内に引き入れていると聞いたことがある。この滝の水上を切り落とせば城内の水は枯渇するであろうと思う」と申し述べた。

 半左衛門は落城の折恩賞を約束する、案内を頼むと申しいれた。藤三郎、私が直接案内することは出来ないが友に十郎左衛門と申す者、琵琶の久保と言う所に住んでいる。この者良く地理を存じています故、案内致させましょうと、その夜四つ(午後10時)十郎左衛門方へ参り依頼した。

 十郎左衛門早速引き受けてその夜のうちに兵糧を炊き出し藤三郎、十郎左衛門が先に立ち、内山半左衛門足軽百人を率いて一行は獣道を回って土塩村の仙が滝に到着し上流の水を土俵で堰き止め山を崩して水を他へ放流し城内へ水が入らない様にしてしまった。

 北国勢との緒戦で九十九川からの水の補給を止められた松井田城は仙が滝から
の水で三千人の将兵が生活する水に不自由はしていなかった。しかし山城の弱点、水の補給を断たれては落城はもはや免れなくなった。

 また地理をわきまえた十郎左衛門に案内させて松井田城の角櫓の犬走りより忍び入り兵糧倉に火をかけた。おりしも西風激しく吹き出して東郭群全体が猛火に包まれた。

 藤田能登守、前田又二郎これを見て「時分はよし」と下知しおめき進んで城郭群へ乗り込んだ。上杉・信州・加賀総勢五万七千余騎、一同にどっと喚声を上げ鯨波をつくり攻め立てた。南郭群も大軍に攻め立てられ敵に手に渡ってしまった。

 しかし、大道寺勢は本丸、二の丸に兵力を集中させて守り微塵も動揺する様を見せず戦った。夜も暁になり天正一八年三月二十三日、火の手は炎々と空に立ち上り、ついに北郭群、西廓群、も落ち二の丸まで燃え覆った。炎の中二の丸も敵の占領するところとなる。

 二の丸は落ちても尚30M高い位置に堀切りや連続堅堀で容易に敵を近づけない構造に作られた本丸には尚千余騎の将兵で敵を防いでいた。城のなかの城として最後の防衛拠点として本丸は作られていた。

 前田勢の鉄砲大将に長田五左衛門は剛勇の士で敵味方に鳴り響いていた。本丸から激しく打ち出す鉄砲をものともせず、竹束を持って近寄り本丸に突入しようと攻め寄せる軍勢の先頭に立って進んだ。

 他の軍勢全てが「長田を討たすな」と長田に寄り添い一本の大きな鏃となって攻めかかった。長田は直属の士卒と共に先陣を切って城にとりついたが松井田城本丸の堅塁を突破できずにいた。
しかしとうとう長田の郎党、関宗右衛門、同宗三郎、管豊次郎が城の塀に取り付き打ち破ろうとしていた。

 この時を待っていた大道寺新四郎本丸の木戸をさっと開き長田の備えに突き入って当たるを幸い愛用の長槍で突いて回る。その勢い摩利支天阿修羅王の再来かとあばれまくりこれに向かうもの生きて帰れなかった。

 なかでも早川六左衛門、新四郎の馬を離れず一身胴体の如く戦い永田の剛卒関宇右衛門の鋭く突き出した槍を進んで受け一進一退の熾烈な戦いをし、ついに六左衛門の槍が関宇右衛門の腹を突き刺しどっと伏してしまった。

 これを見て関又八郎「兄の仇き」と駆け寄るところを新四郎槍をもって払えば
空掘りの中へ真逆かさまに落ちて行った。

 これに勢い付いて新四郎の突撃隊敵陣に入り暴れまくった。まさに本丸へ侵入しようとしていた永田の備え大いに破れて十余人枕を並べて討ち死にしてしまった。加賀の侍大将、長九郎左衛門大いに怒り、自ら槍を引っさげ群がる中に突き入り、大道寺の群卒、14人を突き落とす。敵中に孤立している新四郎勢大いに乱れた。長田勢「得たり」と真っ先に進み打ち破らんとする。

 新四郎勢、敵に退路を断たれ包囲され殲滅かと思われた時、本丸の城門さっと開き駿河守三百余騎を錐の如く長田の陣に切り込んだ。新四郎助太刀を得て戦おうとしたが駿河守これを制し「引き上げよ」と下知すれば新四郎是非もなく父子共に引き上げる。

 寄せ手、付け入りせんとするところへ、城中より鉄砲激しく打ち出し北国勢は進軍を阻止され父子無事城中へ引き上げる。

 しかし五万数千の総軍、大手搦め手、狭間狭間、矢倉矢倉から一度に昼夜を分かたず攻め、城方の討ち死に手負い数知れず最早これまで落城はま真近に迫っていた。

 新四朗の守役で兵法の指南役でもある児玉五郎左衛門利久もこの猛攻の中で散っていった。鉄砲大将木部官兵衛もまた帰らぬ人となっていた。新四朗もまたまもなく後を追うであろうと感じていた。

 今朝からの本丸をめぐる激しい戦いで松井田城の戦える兵力は600名に激減していた。

 駿河守本丸広間に主だった将兵を集め口を開く。「皆のもの今日まで良くわしを支えてくれた。感謝する。しかし水の手を断たれ、ここ一両日の戦いで味方の兵の多くを失ってしまった。良く戦ってくれた。関東武士の気骨を十分敵に知らしめた。今宵闇に乗じて落ち延びられるものは城を出よ」しかしほとんどの将兵は城を立ち去ろうとしなかった。

 ほどなく本丸の最上階に引き上げた駿河守、我が子新四郎を呼び最後の決心を打ち明けた。「早雲公より5代100年続く北条家、この度滅亡に定まった。どうにかして厚恩に報いたいと心は矢猛にはやり我が父子の力及ぶ限り戦ったが落城寸前に来ている。しかし城を開いて降参することは関東武士として出来ない。

 我々父子自害して、残った味方の助命を願い出ようと思う。汝の心を聞かせてくれ新四郎は即座に答えた「有り難きご所存です。しからばその方針に沿ってやるべきことが有ります。」と座を立ち今年3歳になる弟、長松丸を抱き現われ早川六左衛門を招き、「汝に申し付けることがある是非引き受けてくれ」とじっと顔を見つめる。

 「六左衛門「何事ですか」と問えば、新四郎口を開く、「当家の運も今日限りとなった。よって父諸共に切腹する。

 汝この長松丸を盛り育て大道寺の家を再び起こしてくれ」と長光の短刀、家の
系図、金3百両を添えて渡す。六左衛門涙を流して「ご父子切腹とお聞きしてどうして私が落ち行くことが出来ましょうや、追い腹仕る儀お許し下さい。」と懇願する。

 新四郎「殉死、追い腹ばかりが忠義ではない、後々家を立てることこそ肝要である。是非にも我ら父子の願いを聞き届け長松丸を落としてくれ」六左衛門暫くうつむいていたが我が命に代えてお守りしましょうと承諾する。

 六左衛門いわく「首尾良くこの城を落ち脱出出来た時、増田天神の杜にて狼煙を上げます。御心易く思し召し下さい」と長松丸を母衣に入れ、扉の門を抜け出て増田村の方角へと夜陰にまぎれて落ちて行った。

 しかし落ち武者を警戒していた真田勢に発見され「落ち行く武者逃すな」追われた。
六左衛門向かって来る敵を突き落とし、あたりを払い落ちて行った。しかし
八方より包んで「討ち取れ」と矢を射られ包囲の輪をちじめられた。六左衛門
ここをせんどと戦う内、母衣の中で稚児の鳴き声が聞こえた。

 包囲していた幸村、さては大道寺の次男長松丸を落としてやるに相違なしと見た。かかる勇士の子孫は残したきものと思い、かの武者戦いの帰趨が定まった今、追う必要無しと囲みを解く。幸村本年18歳と言えども天晴れ智勇仁三得備えた武将であると六左衛門敵ながら感謝する。

 かくして六左衛門、増田に近い天神の杜にて狼煙を上げ、秋間の方角へ落ちて行った。

 大道寺父子、天神の杜にて狼煙の上がるのを見て「これで心残りなし」と三保崎九郎兵衛を使者として加賀勢寄せ手の大将、長九郎左衛門方へ出向かせた。「ただ今駿河守父子切腹仕りそうろう間、御検視くださるべし」と申し入れた。長九郎左衛門、前田利家、上杉景勝の御本陣へ使者を立て指示を仰いだ。

「神妙なり」との上意にて長九郎左衛門より検使として堀権之丞、上杉家先陣甘粕備後守より斉川団右衛門が来る。

 城内より使者の間へ通し、大道寺駿河守・新四郎諸士を集め大広間へ居並ぶ。
大杯にて酒を酌み交わし、その後座を立って険使に一礼しやがて妻「おきしの方」を見て「見苦しきことの無きように」と臨終の一言。やがて切腹の場にて周りに一礼しもろ肌脱いで腹十文字に切る。

 家臣森半九郎介錯し自らも腹一文字に切りはてる。新四郎、父の死を目の当たりにしてこれで大道寺が滅び自らの一九年の短い生涯もまもなく終わろうとしていることを感じる。

 戦国の世に生まれ生と死は常に隣りあわせであり卑怯な振る舞いを何にもまして恥として生きてきた。
良き師、良き部下に恵まれ存分に戦うことが出来た。出来ればこの先宿敵真田幸村と再度戦いたかった。しかし五万七千の雲霞の大軍を相手に1時は互角に戦えたことは喜びでもあった。生をまっとうし父を越える武将の夢もまもなく消えようとしている。

 生の終焉を真近にしてひときわ光芒を放っているのはみわ姫との恋であったと思う。仙が滝で雷雨の雨宿りで二人が結ばれたこと、西牧城での姫との出会い
そして、松井田城に正月来たとき戦国の厳しい現実の中にも、もし生き永らえたら夫婦になろうと約束したことが走馬灯のように去来した。

 先に逝ったみわ姫とまもなく会えるであろう。冥土の道すがら沿道にきれいな
花が咲いていれば父と貴女に花を手向けたい。
「生と死が常に隣り合わせの時代、あの世の存在もまた現代よりはるかに大きく信じられていた時代であった。」

 死の恐怖は感じなかった。父と同じように見事に切腹したいと思った。
もはやこれまでと介錯人、立会い人に目で会釈し新四郎は腹に真一文字に短刀を突き刺し切腹した。介錯は長谷川九郎次郎が勤めたが同じく自らも追い腹を切る。
駿河守の奥方おきしの方これを見て懐剣抜き放ち自害して果てる。両足は硬く
紐で結わえられていた。

 切腹した傍らに辞世の句がしたためられていた。

 辞世の句
 よそごとに唱うるように思いしが南無阿弥陀仏というべかりける。
行年五十八歳大道寺駿河守

 散りて行く死出の山路に花あらば折りて手向けん君と父とに。
行年十九歳同嫡子新四郎

 検使の両士切腹を見届け城に火をかけ大道寺父子の首を持って城外にでる。

 総軍凱歌をあげ陣払いをする。長九郎左衛門大道寺父子の首を城近くの補陀寺に葬り冥福を祈った。

早川六左衛門はその後苦労して長松丸を育てた。長松丸は約二十年後の関が原の戦いで尾州公に従い参陣し手柄をたて大道寺玄蕃と改め千二百石の侍大将になった。                     







 後書き
この小説は旧家に伝わる書き写しを声の友社が纏めた松井田城落城記及び津本陽氏の下天は夢か、インターネットの大道寺駿河守より資料を参考にさせてもらいました。

 津本陽氏の小説では大道寺駿河守は松井田城落城後北国勢に加わり八王子城の凄惨な戦いに加わっていることになっていますが地元の旧家に伝わっていた伝え書き
を優先し声の友社の『松井田城落城記』を資料として優先しました。

 筆者は春三月緑の葉に彩られる前の季節、松井田城跡に登ってみましたが町から眺める様相とは異なり尾根と深い谷に仕切られた城跡は激戦で名高い高遠城址より数倍の規模があり当時は難攻不落の城であったと想像させます。

 東西南北廓跡、本丸、二の丸と標識を頼りに登ったのですが三時間があっと言う間に経ち夕暮れ時となり帰り道が分らなくなり遭難しそうになりました。
本丸跡には小さな社があるだけですが目をつむると当時の人の息吹を感じることが出来ます


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