安住の地
 
主人は昭和の末頃老人クラブ「三四会」に入会し、副会長として4年勤めた。会長で町会議員だった新井さんが時々家に遊びにきて時の経つのも忘れて談笑して行った。

 新井さんとは町政のこと農政のこと、時間の経つのも忘れて語り合っていた。肝胆合い照らした仲であった。しかし新井さんも病を得て亡くなりその後主人が5年程、老人会会長を務めた。
 家では無口で余り笑わなかったが、外では、ほがらかな明るい性格でカラオケが大好きだった。農協の旅行や、老人会の旅行でバスの中では新曲を披露し、また教えたりしたので、行く度に新曲が覚えられるので皆さん、旅行を心待ちしていた。

 若い独身時代バイオリンを趣味で弾いていたのでリズム感は確かなものだった
老人会の会長は弔辞の作成もしなければない。訃報が入るとその人の生い立ち、経歴、家族構成を詳細に調べ、故人の「はなむけ」に相応しい文章を考え、後に残った人に長く記憶に残ることを心掛け弔辞を作成した。

 従って、お葬式の時の弔辞は村中で故人を偲び、泣かせる事で有名だった。涙金として家族から金一封を数多くもらい老人会「三四会」に入金し、会の財政も豊かにした。

 第二次世界大戦で海軍に身を置き、暇な時は本を読んでいたので文章を作ることも苦手ではなかった。

 この頃私は70歳台半ばになっていたが体は健康で町の定期健康診断でも悪いところは無かった。歯科検診では虫歯は1本もなく、歯のコンクールで表彰された。子供たちは皆独立し、主人と2人「ウド」や野菜を作って平穏な日々を過ごしていた。

 時々子供たちや、孫が訪れ時折にぎやかで楽しい時間を持つことが出来た。
私はこの頃には経済的余裕も出来たので主人と2人で国内の有名な温泉旅行をしたり、ハワイ旅行を楽しんだりした。また孫たちに着物を作ってプレゼントしたり比較的満ち足りた生活をしていた。

 毎日の生活は食事は薄味を基調として、栄養のバランスを考えていたので主人も私も町の健康診断では悪いところは無かった。私も年齢より10歳は若く人に見られた。

晩年の平穏で満ち足りた生活がこの先ずっと続く様に思われた。この頃主人は人生の集大成として、自分の死後を考える様になった。軍人恩給の会の会長としも老人会と同じ位い携わり、関係する多くの人が訪ねて来ていた。
 しかし松井田町のかって軍隊で苦労した人との交流も近頃では亡くなる人も多くなり遊びに来る人も段々と少なくなって来ていた。
主人は周りをとりまく状況から、自分の亡き後、法事で親戚が集まった時「たき」に肩身の狭い思いをさせたくない、家を新築すると言い出した。

 次男で末っ子は高崎でアパート暮らしをしていた。家を建てるので一緒に暮らさないかと相談し高崎から引っ越して一緒に住む事にした。子供達は農業は、やらないだろうからと畑の中に家を作ることにした。風呂やトイレ、キッチン、はそれぞれの階に作り8LDKほどの大きな家を計画した。

 部落1番の大きくモダンな家を平成7年11月着工、翌年8月に完成した。昔から住んでいた家の上の土地に白亜の二階建ての家が出来、近くの学校や郵便局から見ると周りの木や畑と調和し美しさをかもし出していた。

 長い間あばら家に住み、こんなにも広く大きな家に住むことが出来るとは想像も出来なかった。
この時の主人の喜びの顔が今も目に浮かんで来る。人生最大の喜びであったと思う、私も手を取り合って喜んだ。

 主人は苦しい生活の中で、時々私に言っていた。俺は若い時、手相の大家に見てもらった事がある。その時こう言われた。「君は若い時は苦労する、しかし大器晩成で必ず成功する」主人は生活が苦しい時現状を辛抱するためこの事を良く口にした。

 今こうして大きな家が完成し建築費の4割を現金で出せたことが現実となった今、この言葉は当たっていたと私は思う。 私も長い間主人と共に努力したことが報われたと思った。新築祝いに子供や孫、親戚を招待し盛大に祝った。
 10畳一間に家族6人が暮らした戦後の貧しい生活から比べれば時間と2人の努力がもたらした夢の様な境遇の変わり様であった。しかしこの喜びもわずか半年だった。

 主人に喉にものがつかえるような症状が現れ病院で診てもらった。この時、胃癌の宣告を受けた。平成9年3月17日午前十時、碓氷病院に入院、25日午後2時半より3時間の手術を受け手術は成功した。

 しかし胃の周辺のリンパ節にしこりが発見されたが手術することは出来ず抗がん剤と月に数回の放射線治療にゆだねられた。

1年程経過し痩せていた体も元に戻り畑に出て作物の様子を見られる様になり、快気祝いも出来た。 私は主人に少しでも長生きしてもらいたいと主人の代わりに畑仕事をした。

 主人は、老人会「三四会」の秋の旅行にも行け、好きな歌を歌って皆さんと良い旅行が出来たと喜んで帰ってきた。私は主人の代わりに畑で働き「ウド」取りで腰を痛めていたので一緒に行くことが出来ず家で留守番していた。私は主人が元気になってくれたことを何よりも喜び、神仏に感謝した。

 手術当初お医者さんから胃癌はかなり進んでいるので再発しない保証は確約出来ないと言われたが、主人の元気な姿と血色から見てこのまま良くなってくれるかもしれないと期待した。近頃ではリンパ節のしこりも小さくなったとお医者さんに言われた。

 主人も調子がよい時は畑仕事を時々やれるようになった。しかし、前に労働災害で痛めた腰は長い闘病生活でかなり弱くなっていたので腰をいたわりながらの畑仕事であった。二人で畑にいられることに幸せを感じていた。

 しかし平穏な暮らしは、長くは続かなかった。平成11年11月2日、肝臓ガンで再び入院、その後入退院の繰り返しだった。平成13年のお正月は家で迎えることが出来た。
 この間、食べやすいもの、好きなものを作り食べてもらおうとしたが次第に食は細くなって行った。好きな野球放送も見る時間が少なくなっていった。

 また、寝ていても目まいが始まり、3月1日に再入院になってしまった。この時は骨にまで癌が転移し2週間から20日の余命と、お医者さんに宣告された。

 主人も癌であることは最初の入院で宣告され知っていた。この時83歳、主人は癌の宣告を受けても思い悩むこともなく、運命を受け入れ、普段と変わらない生活態度を保っていた。ただ出来ることなら癌と闘いながら生活力の乏しい末っ子の清治がこの家を保持出来る目安がつくまで命を長らえたいと思っていた。

主人の父も癌で60代で亡くなっている。主人は時々話していた。喧嘩の仲裁や義太夫語りで大酒飲み、家業の農業はほとんどしないで、猟銃を撃ったり、道楽で一生を過ごしたが唯一つ尊敬することがある。

 それは食道癌の宣告を受けたその日から、手術したとて治らぬ病、これ以上家族に迷惑を掛けることは出来ないと死を甘受したいさぎ良さであった。
こんな父の影響を受けてか、今までは、病気に対して悲しみとか、暗い表情は私に対しても感じさせなかった。しかし、87歳の現在、今度ばかりは最後と悟っていた。

 この時、消え行く命の最後の瞬きの中で、思い悩んでいたことがあった。一緒に住んでいる末っ子及びお嫁さんがエホバを信仰していた。この宗教は焼香することはしない。ましてお墓にお参りしお花を手向けることもしない。
息子夫婦に誘われて以前、エホバの集会にも参加したが理解することは出来なかった。

 主人は息子夫婦のことは初めから期待して居なかったが、群馬高専に通学している孫に
期待し、お墓を守ってくれるものと期待していた。ところが、この孫もエホバに入り望みが無くなってしまった。

 自分の肉体、生命が終わることに対しては逍遥として受け入れた主人も死後の世界に思い致す時、自分の足跡がエホバによって跡形も無くなると思う時、その苦しみを私は見ていられなかった。自分の肉体が滅び、消滅することは癌の宣告を受けた時から覚悟は出来ていた。しかし魂の消滅はどうしても受け入れられなかった。

 若い時、全く神や仏を信じなかった主人が臨終の床の中で、この世からあの世に旅立とうとしている時、お墓はあの世への橋渡しとして、また自分の存在した証として守ってもらいたいと思っていた。主治医にも何度も心の内を打ち明けようとしていた。しかし話す機会はめぐって来なかった。

 亡くなる10日位い前、長男が松本の会社から病院へ面会に来た。主人の悩みを私が話したところ、「僕がお墓を貰い受け、その後は息子に引き継ぎ、末永くずっと守って行く」と約束してくれた。

 この頃は抗がん剤も強いものを使っていたので意識が朦朧とすることがしばしばでしたが、小康状態の時、このことを主人に話した。

 それからの主人に安心と安らぎの表情が戻った。自らの肉体が滅びた時、不滅の霊魂が存在し続けるかどうか、この世での証明はされていない。しかし先祖を供養し、心の平安が得られることを思う時、また数々の危険に遭遇して生命が救われたことを思う時、やはり人間の霊魂の存在を信じたいと思った。そして自分の無き後、自分のお墓が守られる中で、家族を見守りたいと主人は願った。

 最後の10日前、お医者さんが私や長男に「痛みを和らげる抗がん剤を使用するが、その分生存する時間が短くなります、それでも痛みを和らげますか」と言われたが骨にまで癌が転移し、造血作用も阻害されている現在、せめて痛みから解放させてあげたいと承諾した。それからは私の他、長女、次女、末っ子のお嫁さん「菊恵」さんの手厚い看護により臨終を迎えている。

 再入院であと20日間程度の命と宣告された時から、私は病院で最上の個室を希望し、毎日病院で寝泊りしながら看病した。私も病院で出される食事が段々と食べられなくなり痩せ細って行った。 

亡くなる1週間前、主人は私に最後の言葉を語った。波乱に満ちた人生だった。養父の執拗な脅迫や、いやがらせも今は遠い夢だ。鉄砲や日本刀で川崎在住時代、俺に接触して来たこともあった。しかしお前を守り抜いた。

 また、東京のレストランでお前と食事をしている時、ただならぬ雰囲気に遭遇し、お前と長男を、そっと先に返した。案の定6,7人のチンピラに因縁をつけられ取り囲まれた。

 しかし、戦う時は1対1の体制に誘導し柔道の関節技を使えば、暴れ者で名をはせた青年時代、短刀や日本刀でつきかけられ、しのいで来た自信から負けないと思った。

 お前が10代に見え、俺も若く見えたので脅してやろうと取り囲んだものと思う。しかし俺のただならぬ気迫に押され、乱闘にはならず囲みを解き散って行った。あの時はお前や長男を守るためには自分の命も犠牲に出来た。

 また戦時中船から降り帰宅途中、初老の男性に5〜6人の男性が暴行を加えていた。駅の構内であったが周りの人は怖くてただ見ているだけ、俺は助けに出てまたたく内に皆動けない様にした。しかし命に別状無い様に急所は外している。

 若い時はお金は無かったが若さと気力が充実し、お前と充実した日々を過ごすことができた。思えば養女として、自分の後を継がせたいと育てたお前を強引に奪い取ったのだから養父の豊吉さんもくやしかったのだろう。今思い出すと強引過ぎたところもあったように思う。しかし、後悔はしていない。

 俺の親父は高崎で柔術の師範代で大酒のみ、喧嘩の仲裁をなりわいとしていた様な人で義太夫を語ったりして家の農家の仕事はほとんどやらなかった。

 代わりに俺と弟の連平が学校を早引けさせられて真っ黒になって働いた。従って国語や絵画は得意であったが基礎の積み重ねを必要とする算数は全然出来なかった。だからお前の様に全ての学科を得意とする人に惹かれた。1番良いと思っていたところは頭が良く、内助の功で支えてくれた事だ。

 よく俺が山之内一豊の話をしたが、お前には心から感謝している。
駆け落ち同然で無一文から二人で努力して来た。今は経済的に心配することは何もない。俺はこうしてお前に手厚い看病をしてもらって最後を迎えることが出来た。

 残して行くお前のことが心配だ。生活出来る十分なお金は残してやれる。あとは子供達と仲良く残された人生を生きてくれ。
お前の良い点でもあり、欠点でもある気の強さを心の中にしまいこみ、エホバ信仰の息子達であるが仲良く暮らしてくれ。

 私は返す言葉がなく、どうしてもっと早く、話してくれなかったのかと心の中で泣いた。生前は私の気の強さもあり、時々夫婦喧嘩もした。今はもう遅い、ああ残念無念と思う。

 それから3日目急速に体力は消耗し、痛みと和らぎの繰り返しの後、主人は息を引き取った。臨終の表情は安心と安らぎが戻っていた。

 私は心の中で誓った。最後は立派なお葬式で天国への旅立ちをさせてあげよう。主人が残してくれたお金だもの、主人の為にいくら使っても惜しくはない。

 お葬式は一緒に住んでいる次男がエホバで葬式はやれないので、東京の長男に喪主になってもらい、親戚、知人、部落の人、多くの町の関係した人に見送られ盛大に行うことが出来た。葬儀後も多くのひとが線香をあげに来てくれた。

 中には50歳も年の離れた若い青年が生前主人に世話になったと、思い出話をしていった。こんな時は私も主人と過ごした人生に感謝した。

 49日の法要は磯辺ガーデンで近所の人や親戚を招待して盛大に済ますことが出来た。心の中にぽっかりと大きな穴が空いた私であったが時々生前主人が語っていた事を思い出す。主人は原市の実家のことについて子供たちにもよく話していた。

 お祖母さんは若い時、安中城の御殿女中をしていた。江戸の末期、水戸の天狗党が中仙道から京都に上った。幕府から各城主に討伐命令が降りている。しかし、100名足らずの城兵で数十人の手だれに対抗するすべは無く、大砲を撃ちかけることにした。

 大砲を発砲したが街道を歩む天狗党には届かず田んぼの中に落ちてしまった。たまたま大砲の傍にいた喜作と呼ばれた用人が発射の瞬間驚いて持っていた篠の棒を地面にたたきつけた。

 城の発射責任者はお前が篠の棒でたたいたから目的地に届かなかったのだ。罰として100たたきの刑に処するといって責任をとらされた。こんなことを話してくれたお祖母さんは長男の確一郎兄貴は可愛がってお菓子を時々与えたが農家の次男、三男はみじめなものでほとんどもらえなかったと話していた。母親は40歳位で癌で亡くなっている。

 また、私達が結婚してまもなくの頃、長男はまだ生まれていないとき、主人の実家に行った時、軽井沢で万平ホテルの女中頭をしている叔母さんにお会いした。この時主人は良く気のつく可愛い人をお嫁さんをもらったねと、褒められたことを生前よく話してくれた。

 当時の万平ホテルは軽井沢で指折りの名門ホテルで、叔母さんに自分の妻が評価されたことがうれしかったと見えて何度も話した。私も嬉しかった。

 1回忌は磯部の高台旅館で無事済ませた。親戚の人を大勢呼んで盛大に供養することが出来た。ほどなく私は、かねてから主人と初めて所帯を持った川崎大師の近くに行って見たいと思っていた。

 長男に話したら喜んで連れていってくれた。1週間の日程で長男のいる東京練馬に滞在し、川崎大師にお参りすることが出来た。

 私達が暮らした場所は大きな建物が立ち並び昔の面影を見出すことは出来なかった。しかし若き日、主人の無事を祈った川崎大師に詣で、また主人の宗派である、真言宗の大本山でもあるお寺に手を合わせていると心の安らぎを感じた。お札も頂戴し、家の中に飾ってある。

 主人が亡くなってから1年以上たった現在、私の心にぽっかりと大きな穴が空いている。今まで大切に保存していた私の着物や洋服は出かけることも少なくなったので孫や親戚にあげてしまった。主人の遺品も時間をかけて整理している。

 生前主人の実家の姪、八千代さんからもらったお礼の手紙や、お見舞いの手紙がタンスの奥の方に大事に整理され保存されていた。

 独身時代、実家で共に暮らし、なついてくれていた長女の八千代さんを、ことのほか可愛かったものと思う。 昭和20年代終わりころ貧乏のどん底にあった時、八千代さんが遊びに見えた時、はきだめに鶴が舞い降りたと喜んでいた。
評判の美人で見る人を皆、魅了してしまった。東京の財閥の御曹司からの縁談もあったが今は自分の好きな平凡なサラリーマンと結婚し幸せに暮らしている。

姪からもらった手紙は主人の宝ものだったと思う。
3回忌は平成15年3月16日、立派に済ませた。私はこれも親戚や家族のお陰と感謝している。3回忌の食事会は磯部ガーデンで行った。その席で私は心のわだかまり「エホバ」のことを相談した。お坊さんは「「エホバ」のことは気にしないで安らかに暮らして行きなさい」と言われた。

「「エホバ」はお寺にも勧誘に来ます。自分の信じる宗教で心の平安が保たれればそれで
いいのです」私は主人や先祖を供養し心の平安を取り戻したいと思った。
 私は、平成15年5月で満88歳になる。経済的には恵まれた環境であったが実の父母や姉妹を恋しく思った少女時代、自殺を思い留まってからの逃避行の生活と,夫二郎との激しい恋愛,戦争で何時別れが訪れるかも知れない不安の時代、そして貧乏のどん底と、子育て,そして熟年になって訪れた平穏な時代、自分の人生に悔いはないと思う。

 養父に追いかけられ、養女のままで結婚したため主人との結婚式は出来なかった。しかし私は、いつも思っていた。一度花嫁姿になって見たいと。

こ思いは結婚50年目の金婚式で実現した。子供達夫婦と7人の孫たちに囲まれて祝福され、念願の記念写真を撮ることが出来た。宴席で楽しそうに歌っていた主人も今は思い出の中にある。今の私は親思いの長男、長女、次女が時々訪ねてくれる。

また、温泉にも時々連れて行ってもらっている。ゆっくりではあるが自分で散歩したり、畑で野菜をとったりすることは出来る。私はこの上ない幸せと感じている。主人も天国で幸せを祈ってくれているでしょう。「あなた、安らかにお眠り下さい」

   完

 

                      Page top