自 分 史

幼年時代
 
  昭和14年10月、川崎大師の近く、観音町にうまれる。
 5歳の頃、三保の松原を近くに望む清水の港での情景を思い出す。港に行くといつも優しい
 お姉さんが僕と良く遊んでくれた。年齢は十九か二十歳、親切にしてくれたこと をかすかに
 思い出す。

  造船所が隣接していたので、月単位で美しく塗装された船が増えていたように思う
 
父は海軍にいたが昭和19年乗船していた船は沈められ当時清水の航空隊で予科練の
 補助教官をしていたので週末学生が5〜6人自宅に遊びにきて「七つボタン」を歌っていたの
 を思い出す。

  当時の鮮烈な記憶は、母と妹と連絡船に乗り30分位いの所で航空機による機銃掃 射をう
 けたこと、甲板や周りの海に無数の弾丸が炸裂し、母と共に船倉へ非難したこと、また空襲
 により近所の人と一緒に防空壕に避難、しあまりの暑さに外へでたら周りの家が半分以上焼
 けてしまったこと等 戦争の恐怖を今も思い出す。


小・中学生時代
 
  群馬県松井田町、当時は細野村に疎開、そのまま、住み続ける。
 松井田からは、山一つ越えた山村である。現在は隋道が貫通し、車社会で不便さは感じ
 ないが当時はバスもなく、駅からは大人の足で1時間ほどの距離である。

  小学校には昭和21年入学する。1年生では授業は1学期の半分位い休みだった。進駐軍
 が授業参観に見えた時、先生が緊張していた。遠足は2年生の時、学校から1時間半くらい
 かけて天井根と言う山の頂上に松井田の町を走る、汽車を見に行った。

  当時は給食など無く、皆お弁当を持参した。昼時になると友達の何人かは真っ白いお米
 のご飯、僕のご飯はお米3割、麦5割の中にさつまいもが入ったもので、劣等感を持った記
 憶がよみがえる。

  小学5年の夏、増田川をせき止めて小さなダムのような堰堤が出来、子供たちの遊びの
 場になった。僕もいかだに乗って遊んだいたが、だんだん深い所に流され怖くなったので
 当時、もぐりで10メートル程度しか泳げないのに、飛び込んで浅い場所まで行こうとした。
 しかし水面に浮くことが出来なかった僕は溺れた。

  水の中でこのまま死ぬんだと思った。しかし生への執着も強く川底をけって手を真っ直ぐ
 に上げ指を水面に出し助けてくれるのも期待した。
 すんでの所で5歳くらい年上の人に助けられた。今あることを、いつもこの人に感謝している。

  中学時代は小説を読むことが好きで世界の名作の少年、少女版、伝記ものはほとん
 ど読み尽くした。父母は学校の勉強をしないで毎日小説ばかり読んでいる僕に時々勉強
 しなさいとしかった。

  趣味が昂じて中学3年生では学校新聞に小説を連載した。
  


高校・浪人時代
  高校へは群馬の名門高崎高校にはいる。入学式のブラスバンドの勇壮な響きを、今も思い
 出す。男子校で当時はラグビーが全国優勝したこともあり、体育の時間はよくラグビーをやった。
 タックルで体格のいい友人をころがすのに快感を覚えた。
 高校へは松井田駅迄徒歩1時間、高崎まで汽車で約1時間、駅から学校まで徒歩20分を通う。
 お陰で3年生の時はマラソンが得意となっていた。

  中学時代生徒会長として人前で話すことに慣れていた僕は、弁論部に入部、さすがに1000人
 以上の人前で話すことに怖気づいたが、先輩の厳しい指導のもと何時しか慣れ各地の弁論大会
 にも出場した。 

  大学進学はお金がなくても入れる大学を受験したが失敗、浪人となる。
 父は経済的に余裕なく、僕は大学へ行くため、午前中山仕事、おもにソリによる材木や薪の搬出
 の重労働、午後勉強で、疲労により肝臓を悪くし、歩くのも一歩一歩がやっとの状態になる。
  この時自宅での闘病生活約1年、なかなか良くならず、このまま一人淋しく死ぬかもしれな
 いと感じたので、自分を思い出してくれるように油絵を描く。

  1年後母の姉の主人が町長選挙で町を二分する激戦となり応援弁士として町村の名士
 にまじって応援演説をおこなう。
 続いて行われた県議会選挙でも頼まれて働く。当時落選が色濃かった候補に1000票を
 上乗せしたと感謝される。

  県議選が終了と同時に県知事と現役の参議院議員から秘書住み込みの要請がくる。
 県知事が参議院議員に転出する方を選んだが落選する。
 しかしこの時選挙カーに乗り群馬県中行けたことは大きな収穫であった。
  
   これらの経験からお金が支配する選挙を知り、政治の世界と決別する。当時、父の親友が
 隣町で自転車屋を営んでいた。僕が東京に出てテレビの勉強をしたいので入学金、及び約
 1年分の学費を稼ぐため自転車の販売をしたいと申しいれると快く承諾し、資本を貸してくれた。
 約1年で念願の学費が出来たので、蒲田の電子工学院専門学校に学ぶことができた。

  
このアルバイト中に山村の大きくカーブした道の出会い頭に、バイクに乗っていた僕は材木
 を満載したトラックと遭遇し、急ブレーキのためトラックの前に横倒しとなり、迫り来る大きな前輪
 に轢かれると覚悟した。しかし体から10cmのところで停車、気の荒そうな体格の良い運転手
 は、驚きのため口を聞くことができなっかた。
  

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専門学校時代
 
  
入学と同時に学生寮に入った。当時鉄筋コンクリートのマンション風の寮に入る。1室が4.5畳
 程で個室とは名ばかりの襖で仕切られた5室の人と一緒に生活した。
 沖縄、北海道、岡山と全国各地から来ていたのでお国自慢をきかされたり、ときたま送られて
 くる名物をご馳走になったりで楽しく過す。

  朝と夜は食堂での食事、先輩がずいぶんと立派に見えた。当時寮では、アマチュア無線と
 ファイファイアンプを製作し性能を競うことが流行していた。夜遅くまで音を出しているので
 舎監(教師)に1週間程電源を切られたのには閉口した。

  
約半年後、後アルバイトで貯めた学費が無くなり、寮を出る。新聞配達のアルバイトを住み込みで
 行う。朝は3時起床、配達を終え朝食を済ませてから学校、帰るとすぐ夕刊の配達、食事を済
 ませてふろに入って7時から9時ころまで勉強、当時8人程住み込んでいた中で、学生は僕1人

  周りに気を使ってはいたが、生意気だと先輩数人に呼び出されその内の一人がなぐりかかって
 きたが全てかわして相手も本気になれば手ごわいと知った時からいやがらせは無くなる。
 当時同じ住み込みの中に棟方志項のような彫刻家になると夢を語った友は今何をして
 いるのだろう。
 
  振り返ればほのかに甘酸っぱい思い出もある。店主の娘と友人、2人の娘に勉強を教えて
 ほしいと依頼され英語と算数を何度かおしえた。
 そんなある日、店主の娘で中学2年生にラブレターをもらった。僕も高校3年の時一つ年上の
 同じ中学の先輩にラブレターを書き無視された経験があるので相手の気持ちは痛いほど
 分かった。

  しかしこういうことははっきりさせないと相手に罪作りになると、事情を話してあきらめて
 もらった。つぶらな瞳に涙をいっぱいためて見つめられたことを思い出す。 

  半年程たち帰省した。母が僕の顔を見るなり、痩せて顔色が悪いのに驚きこのままではお前
 は死んでしまう。学費は何とかするから新聞は配達は止めなさいと言う。
 僕も2年程前大病した痛手から完全には回復しておらず、母の勧めに従う。

  再度寮に戻る。初めの1ヶ月程は寝てばかり居たので友人からは病気だと思われた。しかし
 毎朝3時起床で慢性的に睡眠不足だった僕には、眠ることがこんなに気持ちよいものかと
 感じていた。

  下がっていた成績も旧に復し卒業時には希望の会社を狙える状態に戻った。
 2年前87歳で亡くなった父が死の1週間前、僕の為に、食べるものも切り詰めて仕送り
 したこと、親としても苦しい日々であったと話してくれた。
 厳しい父であったが今では感謝の念で一杯です。
 
 

サラリーマン時代
 
  当時テレビのカメラマンが1番人気であった。ただし昼と夜区別無く勤務しなければならず
 体の丈夫でない僕には無理、そこで電子部品製造会社にはいる。当時は研究所と名が付き
 ロビーには洋酒のサロンがあり洒落た感じであった。
  
  成長する会社として選んだ甲斐あって今では国内4工場、海外3工場、多くの営業拠点
 を持つ1部上場企業になっている。
 4前60歳定年で退職している。会社では製造、技術、品質管理、営業と多くの部門を経験する。
 
  会社時代の1番印象に残ったことは30歳から7年間労働組合運動に没頭し内5年間書記長とし
 て仕事と組合活動を両立させたことです。当時は子供も小さく手の掛かる状態であったが、妻は
 うちは、母子家庭ね、と良く言っていた。

  当時は張り切っていて、妻にはたとえ離婚されても組合活動は多くの人の為続けると宣言、当時
 のことを皮肉を込めて時々言われる。しかしストライキか妥結かで深夜の交渉もしばしばであり、
 この時苦楽を共にした仲間は今も良き友人である。

  電気労連の一員として全国大会にも参加し外部の友人知人を得る。後に組合役員をやめ営業
 に配属された時、この時の人脈が多いに役立っている。
 しかしその後のサラリーマン生活で組合時代激しく対立した人の中で、かたきを取られることにも
 時々遭遇する。

  
仕事で楽しかったことは千葉工場に単身赴任していた時、当時は品質管理の責任者であり毎日
 が戦場のような忙しさと緊張の連続であったが週末同じ部門の仲間と飲みに行き仕事を忘れるこ
 とであった。生きのいい魚が入ったと言う連絡に仕事を切り上げて皆で飲みに言ったこともしばし
 ばあった。

  定年で退職、長野県松本に元、同じ会社で働いた友人から水晶振動子、発振器の製造会社に
 品質管理、製造技術の責任者で招聘され約2年間勤務する。ここでは後継者を育てることを
 第一にした。

  期待に答え成長してくれたが長引くIT不況で横浜の本社が会社更生法を申請
 松本工場閉鎖、結婚して妻が身重だった優秀な彼にすまないことをしたと思っている。
 僕を誘った友人は体の無理がたたり60歳で帰らぬ人となる。

 

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